聖霊降臨後第17主日 説教
恵みのまなざし
- 2026年9月20日(日)
- 聖霊降臨後第17主日
- マタイ20章1~16
1「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。2主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。3また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、4『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。5それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。6五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、7彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。8夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。9そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。10最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。11それで、受け取ると、主人に不平を言った。12『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』13主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。14自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。15自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
はじめに: 古代ガリラヤの風景と人々の暮らし
聖書の舞台である当時のガリラヤ地方には、いたるところに美しいぶどう園が広がっていました。ここで収穫されたぶどうは、主に毎日の大切な飲料であるぶどう酒へと加工されました。当時、衛生的な水が手に入りにくい地域において、発酵させたぶどう酒は、大人から子どもまでが口にする貴重な水分補給源であり、生活に欠かせないものだったのです。
そんなぶどう園での労働は、容赦なく照りつける太陽の下で汗を流しながら行われる非常に厳しいもので、肉体的に大きな負担を強いられました。特に収穫の季節ともなれば、ワインとパン、少量の干しいちじく、塩のかけらなどを口にする短い休憩を挟むのみで、夜明けから日暮れ近くまで働かねばなりません。日雇いの労働者たちは、今日一日の生活費を稼ぐために、夜明けの広場に集まり、仕事の声をかけられるのをじっと待ちわびていたのです。
1. 労働の終わりと、予想外の支払い順序
ある家の主人が、ぶどう園の収穫のために労働者を雇おうと、朝早くから何度も街の広場へ出かけていきました。朝の六時に雇われた一団とは「一日につき一デナリオンの約束」
(2)を交わしました。これは、当時の大人が家族を養うために最低限必要な一日分の給料でした。主人はその後も、九時、正午、三時、そして夕方の五時と、一日のうちに何度も出かけていき、仕事にあぶれて途方に暮れていた人たちを次々とぶどう園へ送り込みました。
やがて夕方になり、一日の労働が終わって賃金を支払う時間がやってきました。ここで主人は、なんと最後に、つまり夕方五時頃からわずか一時間働いただけの人たちから先に賃金を支払うよう命じました。
しかも、主人は、あえて夕方から来た人たちに、丸一日分の一デナリオンを渡しました。それを見た朝からの労働者たちは、「もっと多くもらえるだろう」と期待を膨らませました。ところが、彼らも手渡されたのは同じ額だったのです。
2. 広場に立ち尽くしていた者たちの正体
このたとえ話の中で、見落としがちでありながら非常に重要な意味を持っているのが、「一日の終わりまで仕事にあぶれていた人々」の存在です。
朝から雇われた人たちは契約に基づいて堂々と働きに出ましたが、九時、正午、三時、そして夕方五時になっても、誰からも声をかけられず広場に立ち尽くしていた人たちがいました。彼らは働く意欲がありながらも、何らかの理由で選ばれず、見捨てられかけていたのです。
しかし主人は、そんな最後の瞬間にも広場へ足を運び、彼らに声をかけました。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」
(6)。これは、社会から切り捨てられるような存在にこそ、神の熱心な愛がまっすぐに注がれているということを鮮やかに示しています。すると彼らはこう答えました。「だれも雇ってくれないのです」
(7)。この一言には、当時の社会的弱者の切実な現実が凝縮されています。彼らは自分の意志で仕事を怠けていたのではなく、誰からも必要とされず、働き場所がなかったのです。
キリスト教の文脈において、この「何者かによって見出され、招かれる」という出来事は、人間の側の優れた能力や道徳的な功績ではなく、ただひたすらに神側からの「一方的な見出しと呼びかけ」によって救いが始まることを表しています。私たちは自分の価値を自分で証明しなければならない競争社会に生きがちですが、このたとえは、どれほど社会の片隅に追いやられていても、神はちゃんと私たちを見つめ、声をかけてくださるという深い慰めを伝えています。
3. 湧き上がるねたみが暴いた「主人への誤解」
さて、朝から炎天下で汗を流し続けた人たちが主人に不満の声をあげたのは、人間としてごく自然な反応です。主人は確かに最初の契約通りに支払っており、決して法的に不当なことはしていません。しかし、あとに来た人たちと同じ扱いをされたことで、彼らの心には強い不満とねたみが生まれてしまいました。
主人は、不満をぶつける労働者たちにこう語りかけます。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」
(13-15)。
ここで主人が示したのは、私たちの人間的な「損得の計算」や「功績の基準」を軽々と超えた、圧倒的な寛大さとあふれる恵みでした。
主人は特定の誰かをひいきしたのではなく、最初の人とも、最後の人とも、「生きていくために必要な分の恵み」を同じように約束し、それを誠実に果たしただけでした。不満を抱いた人たちは、主人の気前のよさや愛そのものに目を向けず、ただ「隣の人が自分と同じだけもらっている」という比較と、自分の優位性が失われたことへの嫉妬に囚われていたのです。
4. 「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」意図
この物語の結びにある「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」
(16)という言葉には、神の深い意図が隠されています。
神がこのような順序を逆転する意図は、私たち人間が陥りがちな「自己義認(自分は正しい、優れていると誇る心)」の罠を打ち砕くためです。自分が「先」に選ばれた、「長く教会に仕えてきた」といった経歴や立場を誇り、後から来た人を見下したり、自分の功績で神の愛をコントロールしようとしたりする姿勢は、知らず知らずのうちに神の自由な恵みをせき止めてしまいます。
神は、人間の側に立って「誰がどれだけ働いたか」という労働時間の長さで愛の量を決めることはしません。人生のどの時点で招かれようとも、その人が置かれた場所で神の愛を受け入れるなら、一人ひとりに等しく「いのちの全額」が手渡されます。先にいると自負している者が、その傲慢さゆえに後回しにされ、自分の無力さに気づいて最後に飛び込んできた者が、一番深い恵みに満たされる。それが神の変わらない真理なのです。
おわりに: 私たちはどこに立っているか
このたとえ話を読み進めるとき、私たちは無意識のうちに「朝早くから真面目に働いた最初の労働者」の側に自分を重ね、彼らの不満に共感しがちです。しかし、神の国の基準に照らし合わせるなら、私たちはむしろ、自分自身の力ではどうすることもできず、夕方の広場でただ途方に暮れていた「最後の労働者」ではないでしょうか。
私たちが持っている時間も、能力も、そして生きるための恵みも、すべては朝から晩まで私たちを探し続け、声をかけ続けてくれる主人の手から与えられたものです。他人に注がれる恵みをねたむのではなく、自分自身もまた「思いがけず招かれた者」であることに気づくとき、私たちの心の中にある傲慢さや争いは、深い感謝へと変えられていくのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。最後の者をも受け入れ、先の者と等しく救いの恵みをお与えくださる、広く大きな愛に感謝いたします。欠けの多い私たちですが、神の民としての役割を果たしていくことができるようお支えください。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン