Sola Gratia

夕礼拝 説教

十字架を見つめ直す愛の叫び

1ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。 2あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。 3あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。 4あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。 5あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。 6それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。

1. はじめに ガラテヤの人たちを惑わしたものの正体

「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか」(1)。このパウロの言葉は、「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」(1章6-9)を引き継いでいます。。

ガラテヤの人々を惑わしていたのは、外部からやってきた「律法主義者」たちでした。彼らは、パウロが伝えた「イエス・キリストの十字架を信じるだけで救われる」という純粋な福音に、こう付け加えました。「いや、信じるだけではなく、割礼を受けなければならない。モーセの律法を守ってはじめて、本当の救いに入れるのだ」と。せっかく神さまの恵みによって自由にされた人々が、再び「これをしなければ救われない」という律法の鎖に、自らつながれようとしていたのです。

この「惑わす」の原語(ギリシア語)には、単に「騙された」というだけではなく、「邪視(悪意ある視線)に魅入られた」、「魔法で操られた」という意味合いが含まれています。道を逸れつつある信徒たちの様子を伝え聞いたパウロの激しい動揺が表れています。

2. “霊”と“肉”の対比:私たちは何によって生きているのか

「あなたがたは・・・“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」(3)。この言葉こそ、パウロの教えの心臓部です。私たちがキリストの信仰の道を歩み始めたのは、自分の力や努力ではありませんでした。目に見えない聖霊の働きによって、「神さま、私は罪人です。イエスさま、助けてください」と、ただ素直に心をひらくことができたのです。これが「“霊”によって始めた」ということです。

ここでいう「肉」は、人間の生身の体のことではありません。聖書における「肉」は、「自分の力や誇り、自分の行いや業績に頼ろうとする人間の古い性質」のことです。信仰の始まりは「神の恵み(=霊)」でも、いざ歩み始めると、私たちはこう思いがちです。「クリスチャンになったのだから、人よりも立派な行いをしなければならない」。「毎日の祈りや聖書通読をきっちりこなしてこそ、神さまに愛されるはずだ」。このように、自分の努力や人間的な頑張りで神からの合格点をもらおうとすることを、パウロは「肉によって仕上げようとする」と呼んで警告しているのです。

神の霊によって、素晴らしいスタートを切ったというのに、その途中でわざわざ人間の規則や努力という「古い信仰心」に戻ろうとする、その愚かさを、パウロは「なぜ来た道を戻るような真似をするのか」と強くたしなめているのです。私たちが自分の頑張りや目に見える成果に頼りたくなったとき、このパウロの熱い問いかけは、いつでも「原点(恵み)」へと私たちの足を引き戻してくれます。

3. 繰り返さずにはいられないパウロの愛の叫び

2節と5節を読んでみると、パウロはほとんど同じような内容を、少し形を変えて繰り返しています。2節では「あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」と問いかけ、5節では「あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか」と問いかけています。

そこにあるのは、論理的な説得というよりも、我が子を危険な道から引き戻そうとする親の焦り、切実な心情です。パウロにとって、ガラテヤの人々は自分が命を産み出したも同然の、愛しい信仰の子どもたちでした。その子どもたちが、詐欺師の甘い言葉に騙されて、自ら崖に向かって歩み出してしまいました。

「どうか目を覚ましてくれ、キリストの自由を手放さないでくれ」。そこには、パウロのあふれんばかりの涙と祈りが詰まっていたはずです。この繰り返しは、愛のあまりの切なさが生んだ、魂のこだまなのです。

4. 十字架の強烈なビジュアル:あれほどの体験とは何か

4節の「あれほどのことを体験した」とは、どのようなことでしょうか。

パウロは、1節でこう言っています。「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」。この「はっきり示された」という表現は、生々しく目の前に突きつけられている、という意味です。ガラテヤの人々が体験した「あれほどのこと」とは、パウロが彼らの町で語った、十字架のキリストの生々しい物語でした。

彼らが聞いたのは知性や道徳の教えではありません。血を流し、両手を広げて、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15章34)と叫びながら死んでいった一人の人の姿です。その十字架が、自分の罪の身代わりであったこと。その傷だらけの姿の裏側に、自分を無限に愛してくださる神さまの愛の炎があったこと。

それを聞いたとき、ガラテヤの人々の心は打ち砕かれ、涙があふれ、神の聖霊が彼らの内に飛び込んできたのです。心が熱くなり、新しい命が吹き込まれる、人生観がひっくり返るほどの強烈な体験。それが、「あれほどの体験」です。

5. 「無駄に終わったのか」という切実な問い

そしてパウロは嘆息します。「あれほどの体験をしたのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……」(5)。

パウロにとって、「律法主義者」の主張は単なる意見の食い違いではありませんでした。それは、イエスさまが十字架で流してくださった血潮の意味を無にしてしまう、恐ろしい罠でした。だからこそパウロは、「物分かりの悪い」という、少し強い、しかし愛ゆえの言葉を使って、彼らの目を覚まさせようとしたのです。

6. アブラハムの物語:信仰の原点をたどる旅

きょうの福音は、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」(6)という言葉で結ばれています。パウロは霊と肉の議論の証明として、創世記15章の古い物語、先祖アブラハム(アブラム)の姿を持ち出します。

アブラムは当時、子どもがいませんでした。「あなたの子孫が星のように多くなる」(創15章5)と神から約束されていたものの、現実はどう見ても不可能でした。自分の体は年老い、妻のサラも子どもを産める年齢を過ぎていたからです。しかし、アブラムは夜空の星を見上げながら、その圧倒的な神の約束を、ただ「はい、信じます」と受け入れました。自分の力で何かを成し遂げたわけではありません。ただ、神さまの言葉を丸ごと信じたのです。

それを見て、神は義と認めました。それは、神が「よく信じた。その信じる心をもって、わたしはあなたを『私の前に正しく立っている』と認めよう」と宣言したということです。アブラハムが神から「義と認められた」(創15章6)のは、彼が割礼を受けたからでも、律法を守ったからでもありません。割礼の契約(創17章9-11)はまだ成されず、モーセが律法が授けられる数百年も前の話なのです。

つまり、パウロが言いたいのはこうです。「私たちが神に正しく認められる方法の歴史は、律法を守ることではなく、アブラハムの昔から一貫して『信じること』だけだ。今さら、後から作られた律法を持ち出す必要はないのだ」。

7. おわりに 十字架の光のもとで、もう一度歩き出すために

パウロのこの手紙は、今日の私たちに優しく、そして力強く語りかけています。「目を上げなさい。あなたの目の前には、あの日の十字架が、あなたを愛する愛のしるしとしてありありと掲げられているではないか」。「あなたの歩みは、あなたの努力で始まったのではない。聖霊という大きな恵みの風が、あなたをここまで運んできたのだ」。

この原点をもう一度新しく思い出しましょう。私たちは何の誇るべき功績も持っていませんが、ただ主の十字架のゆえに、神から「あなたは私の愛する子どもだ、正しいと認められた者だ」と見つめられています。その恵みの光の中で、もう一度新しく、軽やかに歩み始めましょう。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたは私たちに、あなたに赦されて愛されるという出来事をもたらしてくださいました。自分が愛されるはずもないという思い込みを、あなたの愛によって打ち壊してください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン