聖霊降臨後第15主日 説教
交わりを守り築く、愛の秩序
- 2026年9月6日(日)
- 聖霊降臨後第15主日
- マタイ18章15~20
15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 16聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。 17それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
1. マタイ18章の文脈:愛の実践
マタイ18章には、私たちが生きている中で、人間関係の亀裂や、過ちに向き合うときに、どのように歩むべきかという大切な教えが記されています。この章全体を眺めると、イエスさまが語られたいくつかの重要なテーマが美しいモザイクのように並んでいます。一見すると、これらの教えはあたかもタイルのように分断されているように感じられます。しかし、その根本には一貫した一つの願いが流れています。それは、「神の家族である群れの中から、誰一人として失われてほしくない」という深い愛です。
羊が群れから迷い出てしまうように、私たちはちょっとした躓きや誤解によって、神から、そして互いの愛の交わりから離れていってしまいます。兄弟が罪を犯したときに声をかけ、立ち返らせようとするこの「忠告」の歩みは、迷い出た一匹の羊をどこまでも探し求める羊飼いの愛を、私たちがこの地上で引き継いで実践するための、具体的な愛の道筋です。
2. 罪の本質とは何か:人に向けられた過ちの奥にあるもの
さて、犯した罪の「相手」について深く考えたとき、私たちは「人が人に対して罪を犯しているように見えても、実は神に対して罪を犯しているのではないか」と思い当たります。
マルティン・ルターは、人間の本質を「自分自身の内側に曲がりくねって閉じこもっている状態」と表現しました。神という中心を見失い、自分自身を人生の中心に据えてしまうとき、私たちは隣人の存在を忘れてしまいます。隣人を大切にできないことは、そのまま隣人を造られた神に対する背きとなります。つまり、人が人に対して犯す罪は、必ず神との関係の断絶を伴っているのです。
だからこそ、誰かがあなたに対して過ちを犯したとき、それは単なる「個人的なトラブル」にとどまりません。それは、神によって結ばれた愛の絆が傷つけられているという大問題なのです。
3. 数で圧倒するのか、それとも愛の対話なのか
では、実際に誰かが過ちを犯したとき、私たちはどのように向き合えばよいのでしょうか。話し合いが決裂したからといって、応援を呼んだり組織の権威を持ち出したりすれば、数の暴力や権力による抑え込みになり、心からの和解にはたどり着けないのではないでしょうか。
イエスさまは、第一段階として、まずは二人だけで静かに話し合うことを勧めています。これは、プライバシーを守り、相手のプライドや傷つきに配慮するための最も温かい第一歩です。
それでも聞き入れられない場合に、証人を連れて行くという意味は、「数で圧倒して屈服させる」ことではありません。感情的な言い争いを防ぎ、客観的な愛のまなざしを保つために証人が求められているのです。
そして、「教会に告げなさい」という言葉も、多くの温かい祈りと、愛に満ちた目で見守る家族の輪の中にその人を連れ戻すこと。それは、孤立して心を閉ざしてしまう人を、再び温かい愛の光の中に迎え入れるための配慮なのです。
4. 「異邦人か徴税人のように見なす」という言葉の本当の意味
愛をもって粘り強く語りかけたにもかかわらず、なおも心をかたくなにし、和解を拒み続ける場合、聖書は次のように命じています。「それでも聞き入れなければ・・・その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」
(17)。
この言葉を聞くと、私たちは「その人をもう仲間とは思わず、冷たく突き放し、関わらないようにすることなのだろう」と受け取ってしまいがちです。しかし、ここで私たちが思い起こさなければならないのは、イエスさまご自身が「異邦人や徴税人」に対してどのように接していたかという事実です。
イエスさまは、当時の社会で罪人として蔑まれていた徴税人のザアカイの家に行き、その食事の交わりに加わりました。病に苦しむ異邦人の女性の願いに耳を傾け、その信仰を深く讃えられました。イエスさまにとって、「異邦人や徴税人と見なす」とは、決して人間関係を断ち切ることではありませんでした。むしろそれは、「神の恵みをまだ知らない人」、「新しく福音を宣べ伝え、ゼロから関係を築き直さなければならない人」として見なすということです。
つまり、愛の勧告が拒絶されたときに私たちが取るべき態度は、冷たい絶縁や復讐ではありません。その人を「神の愛をもう一度最初から必要としている愛しい隣人」として見つめ直し、祈りをもって待ち続けることなのです。
5. 「つなぐ」と「解く」の権能:その驚くべき担い手
私たちが互いの過ちに向き合い、赦しと和解の道を歩むとき、そこには神の不思議な力が働いています。イエスさまは弟子たちにこう告げられました。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」
(18)。
この「つなぐ」、「解く」という表現は、当時のユダヤのラビたちの間で使われていた言葉で、「何が神の御心にかなっていて、何が禁止されるべきか」という決定や、「罪の赦しを宣言する」ことを意味していました。
ここで驚くべきことは、この権能が、遠く離れた天の神だけに独占されているのではなく、この地上の私たちに委ねられているという点です。私たちが兄弟の過ちを許し、愛をもって関係を回復させるとき、それは天においてもその関係が「解かれた(自由にされた)」ことを意味します。反対に、私たちがいつまでも人を恨み、赦すことを拒み続けるならば、その関係は地上でも天においても「つながれた(縛られたままの)」状態になってしまいます。
神は、人間同士の和解と赦しの営みを、天の御国においてそのまま受け止めると約束してくださっているのです。私たちの小さな赦しの実践が、天上の神の御心と深く結びついているということに、私たちはもっと驚くべきでしょう。
6. 「あなたがた」とは誰か:開かれた祈りの約束
この地上での愛の交わりと祈りについて、イエスさまはさらに深い約束を与えてくださいます。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」
(19)。
イエスさまは、この直後に「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(20)と約束されています。この約束は、聖職者や特に敬虔な信徒に限定されたものではありません。互いの弱さを認め合い、過ちを犯しながらも神の前に頭を垂れる、すべての人に向けられています。
私たちがどんな立場であれ、神の御名を呼び求め、愛の交わりを求めるとき、その小さな集まりの中にこそ、生けるキリストが臨み続けてくださるのです。
7. 孤独な祈りと「心を一つにして求める」ことの意味
しかし、人生の中では、誰とも分かち合えず、ただ一人で重荷を背負わなければならないような深い苦しみに直面することがあります。「私は一人だから救われないのだろうか」と、胸が締め付けられる思いがするかもしれません。
けれど、安心してください。聖書全体を見渡すとき、神は「孤独な人の声」にこそ耳を傾けてくださる方として描かれています。誰にも理解されない涙や、言葉にならない祈りであっても、天の父なる神はすべてをご存じです。
また、「二人で心を一つにする」ということは、必ずしも物理的に誰かとぴったり意見が一致していなければならないという意味ではありません。見えないところで、同じ主を仰ぎ見ながら祈る信仰の仲間たちが、世界中のどこかに必ず存在しています。さらに言えば、あなたは決して一人ではありません。誰にも理解されないと感じるその祈りのただ中にも、主は静かに寄り添っていてくださるのです。
私たちが人を傷つけ、また傷つけられながらも、互いに向き合い、赦し合い、祈り合うとき、そこには小さな人間の努力を超えた神の大きな愛が満ちあふれます。迷い出た一匹の羊をどこまでも探し求める主のまなざしを心に留めながら、今日も私たちは、隣人と共に歩む愛の道を一歩ずつ歩んでいきましょう。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまがつねに共にいてくださることに感謝します。私たちがその恵みに与る者として、つねにイエスさまのとの交わりに留まっていられるよう、兄弟姉妹が互いに支え合っていけるように、お守りください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン