3それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 4わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
洗礼を受けるとはどういうことでしょうか。3節に《キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち》
とあります。キリスト・イエスという言い方は、キリストであるイエス、神によって遣わされた救い主であるイエスという意味で、洗礼を受けるとは、その救い主イエスに結ばれることです。「結ばれる」と訳されている言葉は実は「…の中へと」という単純な意味です。ですからここは直訳すれば「キリスト・イエスの中へと洗礼を受けた」となります。「洗礼を受けた」という言葉も、その元の意味は「水に浸す、沈める」です。洗礼は元々は全身をすっかり水に浸されるという仕方でなされていました。ですからここは「キリスト・イエスの中に浸された、沈められた」とも訳せます。洗礼を受けるとは、私たちが主イエス・キリストにすっかり浸され、キリストと一つになることなのです。キリストと一つとなって生きる、それが信仰に生きるということです。
私たちが洗礼を受けてキリストに浸され、一つとなったのは、キリストの「死にあずかるため」だったとこの3節は語っています。この「あずかる」も、先程の「結ばれる」と同じ「…の中へと」という言葉です。つまり洗礼を受けるとは、主イエス・キリストの十字架の死の中に身も心も全て浸され、キリストと共に死ぬことなのです。そのことは次の4節ではさらにこのように語られています。《わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました》
。洗礼によって私たちは、キリストと一緒に死んで葬られるのです。礼拝において毎週告白している使徒信条に、主イエス・キリストが「死んで葬られ」とあります。「死んだ」だけでなく「葬られた」とも語られているのは、主イエスが本当に死んでしまったことをはっきりさせるためです。洗礼において私たちも、その主イエスの死にあずかり、主イエスと共に死んで葬られる、つまり主イエスと共に完全に死ぬのです。洗礼によって私たちは主イエス・キリストを信じる者となり、教会の一員とされるのですが、それはこの世の様々な団体の入会の儀式とは違います。洗礼において私たちは死んで葬られるのです。
しかし死んで葬られて終わりではありません。その先があります。それが4節後半です。《それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです》
。十字架につけられて死んだキリストは三日目に復活しました。キリストの十字架の死にすっかり浸された私たちは、このキリストの復活にも浸されるのです。キリストがイースターの朝、葬られていた墓から父なる神によって復活させられたように、私たちも新しい命に生きる者とされる、その恵みが洗礼において与えられるのです。つまり主イエス・キリストの十字架の死と復活が私たちの身に起こった出来事となる、洗礼を受けるとはそういうことなのです。
洗礼を受けることによって、生まれつき罪に支配されている私たちがキリストの十字架の死にあずかることで罪に対して死に、その支配から解放され、また同時にキリストの復活にもあずかって新しい命を与えられ、神に対して生きる者とされるのです。私たちは洗礼によって罪に対して死に、その支配から解放されるのです。洗礼を受けることこそがキリストの救いにあずかることで、洗礼を受けている者がキリスト信者、クリスチャンであり、罪から解放されている者なのです。
そのように言うと、洗礼を受けている多くの方々は、自分は洗礼を受けたけれども罪の支配から解放されているとはとても言えない、相変わらず罪に支配されていて、洗礼を受ける前と大して変わっていない、自分はクリスチャンとして失格ではないか、と思うのではないでしょうか。また、まだ洗礼を受けていない、いわゆる求道中の方々は、洗礼を受けさえすれば罪から解放された善い人、立派な人になれるのかと期待するか、あるいは、洗礼を受けたらそうならなければならないとしたら自分はまだとても洗礼など受けられないと思うかもしれません。しかしこれらの感想はどれも適切ではありません。洗礼を受けることによって、私たちがその日から突然別人のように罪を犯さない者になるなどということはありませんし、そうならなければいけない、ということではありません。洗礼を受けたからといって、罪が私たちにまつわりついている現実は変わらないし、私たちの弱さもそのままだし、置かれている現実が変わるわけではありません。私たちの感覚においては、洗礼によって何かが変わるわけではないのです。
しかし、洗礼を受けることによって、決定的に変わることがあります。それは、神が私たちをどのような者として見て下さっているかです。神は、洗礼を受けた私たちを、キリストの十字架の死にあずかって罪に対して死んだ者として、つまりキリストの十字架によって罪を赦され、その支配から解放された者として見て下さっているのです。つまり洗礼において罪に対して死に、罪の支配から解放されることは、私たちの感覚で分かることではなくて、主イエスの父である神の目において起っていることであり、神がそのことを私たちに宣言して下さるのです。その神の宣言を「アーメン」、「その通りです」と言って受け入れることが私たちの信仰です。その信仰によって私たちは罪に対して死んだ者となり、新しく生き始めるのです。
既に洗礼を受けた者には、この神のみ言葉を、自分に対して語られている宣言をしっかり受け止め、自分の実感に逆らってでもそれを信じることが求められています。み言葉が告げている恵みを大胆に信じるところにこそ、自分の力によってではなく、聖霊の力によって新しく生きる道が開かれていくのです。また、主イエスを信じる信仰に生きることを今考え、求めつつ礼拝に集う方々には、罪に支配された古い自分が死んで罪から解放され、主イエスと共に新しい命、永遠の命を生きて行く、という洗礼の恵みへと神が皆さんを招いておられることをぜひ知っていただきたいのです。自分は意志が弱く、立派なクリスチャンになどなれそうもないから洗礼を受けることなどできない、という誰もが抱く当然の思いは、しかし間違っています。神の言葉は、そういう私たちの思い、感覚、実感を打ち砕いて、神が備えて下さっている洗礼の恵みへと皆さんを招こうとしています。神の独り子主イエス・キリストの十字架の死と復活とに心も体も浸され、主イエスと一つとされて、主イエスが生きておられる永遠の命にあずかって生きる者となされる洗礼を受けることによって、私たちも、神の驚くべき救いのみ業にあずかって、主の救いのみ業をほめたたえつつ、罪の力と戦っていく者となることができるのです。
パウロは、《あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい》
(ローマ6章11)と言っています。ここで大事なのは、最後の「考えなさい」という言葉です。前述のとおり、洗礼の恵みは、私たちが自分でそれを「感じる」ことができるものではありません。私たちに求められているのは、罪に対して死んで、神に対して生きていることを「実感する」ことではなくて、そのように「考える」こと、それを「受け容れる」ことなのです。それは言い換えれば、「信じる」ことです。洗礼を受けたことによって、罪に支配された古い自分が死んで、キリストの復活にあずかって新しい命を生き始めていることは、感じるべきことではなくて、信じるべきことなのです。
今この礼拝に集っておられる、まだ洗礼を受けておられない方々にお伝えします。主イエス・キリストの父である神は、皆さんを主イエスによる罪の赦しと復活の命の恵みにあずからせるためにこの洗礼式礼拝に招いて下さったのです。独り子主イエスの十字架の死によって私たちの罪を赦し、その主イエスを死者の中から復活させられた神は、その全能の力をもって皆さんを罪と死の支配から解放し、復活と永遠の命を与えて下さいます。私たちはどんなに努力しても、自分の力で罪をぬぐい去ることも、死の力に打ち勝つこともできません。しかし主なる神がそれを成し遂げて下さったのです。私たちはその神の救いの恵みを信じて洗礼を受けることで、この救いにあずかることができます。そして主イエスの復活によって与えられた新しい命を生き始めることができるのです。主イエス・キリストの復活の喜び、洗礼式の喜びは、洗礼において私たちの身に起こった出来事となります。その洗礼へと、神は皆さんを招いておられるのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子をこの世に送り、十字架の死に引き渡されるほどに、私たちを愛し抜かれたあなたの愛に感謝します。イエスさまが再び来られる時まで、御言葉のともし火を掲げ続けることができますように。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン