30さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。 31イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。 32そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。 33ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。 34イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
53こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。 54一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、 55その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。 56村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。
きょうの聖書は、「五千人に食べ物を与える」と「湖の上を歩く」という二つの奇跡を囲う前書きと後書きです。きょう読まなかった二つの奇跡は来週読むことになっています。
きょうの聖書箇所は、イエスさまが十二人の弟子たちを宣教のため、また悪霊を追い出し、病人を癒すために派遣されたという6章7節以下からつながる話です。「使徒たち」とはイエスさまの十二人の弟子たちのことで、「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。イエスさまによって遣わされた使徒たちが、イエスさまのもとに帰って来て、《自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した》
(30)のです。彼らが行ったことや教えたことは、この6章の12、13節に《十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした》
と語られていました。つまり彼らが「行ったこと」は、「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」ことであり、「教えたこと」は「悔い改めさせるために宣教した」ということです。
そのように自分たちの体験を喜んで報告した弟子たちにイエスさまは、《さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい》
(31a)と言いました。イエスさまは弟子たちを「人里離れた所」へ行かせようとしているのです。それは一つには、《出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったから》
(31b)」です。しかしイエスさまがこのように言ったのは、ただ休ませるためではなくて、祈らせるためでした。帰って来た弟子たちは素晴らしい働きを与えられた喜びで意気揚々としていたでしょう。そういう弟子たちにイエスさまは、今あなたがたに必要なのは、心も体も休めて、つまり自分の業、働きをやめて、人々からも離れて、神と向き合い、祈ることだ、と言ったのです。
「あなたがただけで」人里離れた所へ行けと言ったイエスさまは、しかし結局ご自分も舟に乗って弟子たちと一緒に行きました。これは、弟子たちが自分たちだけでは本当に休み、祈ることができないことを示しているかのようです。イエスさまに「休んで祈りなさい」と言われても、ついつい動きたくなる、祈るよりも活動していたくなる、それは弟子たちも私たちも同じです。じっと祈っているよりも、何かをして働きたくなるのです。そうしていないと不安になるのです。
そのためにイエスさまは、人里離れた所で祈る時を持たせようとしたのです。しかし自分たちの体験に興奮している弟子たちはなかなか自分たちだけで静まって祈ることができない、だからイエスさまご自身が共に行って、人間の業を休んで祈ることの模範を示そうとなさったのでしょう。静まって祈ることはそのようになかなか難しいことであり、そこにおいても私たちはイエスさまに従うことが必要なのです。
人里離れた所へ行くために、イエスさまと弟子たちは舟に乗って出発しました。しかし人々はイエスさまがしばしば祈りに行っていた場所を知っていたようです。一行の先回りをして待っていました。人里離れた所に上陸するはずが、すべての町から一斉に駆けつけて来た群衆でそこは大変な騒ぎになっていました。それほどまでに人々は、イエスさまのみ言葉とみ業とを求めていたのです。
《イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ》
(34)みました。人里離れたこんな所にまでイエスさまを求めて押し寄せて来るのは、彼らには、自分たちを本当に養い、守ってくれる飼い主、主人がいないためです。それは誰にも支配されずに自由ですが、実際には寄る辺ない身である、ということです。彼らがイエスさまのもとに押し寄せて来たのは、自分の本当の主人、保護者、信頼して自分を委ねることのできる飼い主を求めていたのです。
イエスさまはそのような人々を見て、「深く憐れみ」ました。この言葉は福音書の中で何度も出てくることばですが、原語では「内蔵」を意味する言葉です。新約聖書ではイエスさまご自身にのみ用いられています。イエスさまは、苦しむ人を見ると、内蔵が揺り動かされるように痛んでしまう、そういう特別な憐れみを示す言葉です。そういう深い憐れみによってイエスさまは、人々にいろいろと教え始めたのです。イエスさまはその群衆のために全力を注いで、福音を、つまり彼らの飼い主が誰であるかを語りつづけたのです。
さて、きょうの聖書は、二つの奇跡を飛ばして、《こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ》
(53)と続きます。この湖は、ガリラヤ湖です。ここしばらくイエスさまと弟子たちは、ガリラヤ湖周辺の町々をめぐって、湖を舟で渡ることが続いていました。嵐に遭ったり、逆風にさらされたり、命の危険が迫った時もありましたが、イエスさまに助けられて、渡ることができました。
ここに、「ゲネサレト」という地名が出てきますが、「ゲネサレト」とは、湖の西岸に広がる、ティベリアスの北、カファルナウムの西の肥沃な地域です。ガリラヤ湖はこの地域の名によって「ゲネサレト湖」とも呼ばれます。
《一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた》
(54-55)。癒しを求めて多くの病人が集ってくることも、自分で体を動かすことができない人のために床に乗せて運んでくるということもありました。
《村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた》
(56)。イエスさまに大勢の人が押し寄せている中で、イエスさまの服のすそ(上着のふさ)に触れて癒されるということもありました。
このように、53節以下には、イエスさまと弟子たちが上陸したゲネサレトで、人々が多くの病人を連れて来て、イエスさまはそれらの人々を癒したことが語られています。それは苦しみ悲しみの中にある人々に対するイエスさまの深い憐れみによることです。しかしこのような病気の癒しは、イエスさまが人々に与えようとしておられた神の国の福音のしるしであって、福音そのものではありません。病気の癒しだけを求めてイエスさまのもとに来るというのは、イエスさまのことが本当には分かっておらず、心が鈍くなっていることの現れなのです。
奇跡は神の臨在をあらわす強力なしるしですが、正しく理解しないと、人を誤った信仰に導いてしまいます。人間の欲が私たちをご利益信仰に導き、利己的な人間にしてしまうのです。ですから、イエスさまのすべての奇跡は、十字架と復活を証するものと理解しないといけません。かたくなな、しぶとい人間の罪から救い出されるために、あの十字架と復活を通して、神ご自身の存在を示していただかないと私たちは救われないのです。
このように、世の人々はもちろん弟子たちですら心が鈍くなっており、イエスさまによる救いの恵みが理解できず、イエスさまに信頼して歩むことができない、という現実がここには描かれています。そのような、教会に連なる者をも含めた人間の不信仰こそ、教会の歩みを妨げている逆風であると言えるでしょう。イエスさまはその逆風の中で、救いのみ業を行ってくださったのです。私たちの罪をすべて背負って十字架にかかって死んでくださり、それによって罪の赦しを与えてくださったのです。そしてその救いをさらに多くの人々に伝え、与えるために、イエスさまは私たちを選び、召し出して、教会という舟に乗り込ませ、この世へと漕ぎ出させているのです。この世には私たち人間の不信仰の逆風がいつも吹きすさんでいます。その中で漕ぎ悩む教会の、私たちの姿をイエスさまはいつも見守っていて、父なる神に執り成してくださり、あらゆる隔たりを乗り越えて私たちのもとに来て、毎週の礼拝において、《安心しなさい。わたしだ。恐れることはない》
(50)と語りかけてくださるのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまが、私たち人間に対するあなたの深い憐れみの御心を現してくださったことに感謝します。その愛ゆえに、御子が十字架の苦しみを引き受けてくださったことを、私たちはけっして忘れません。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン
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