1安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 2そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 3彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。 4ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。 5墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 6若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 8婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
イエスさまは金曜日に十字架にかかって死なれました。しかし、三日目、日曜日に復活されました。それゆえに、私たちはイエスさまをまことの神の子、救い主と信じ、イエスさまが復活された日曜日に、イエスさまを神として崇め拝む礼拝を守っているわけです。イエスさまがもしも復活せず、十字架の死で終わっていたならば、キリスト教は誕生しなかったのです。
イエスさまが十字架の上で死んで復活された、その驚くべき事実、その復活の光のもとで十字架を見るときに、初めて十字架の意味がはっきりと示されます。イエスさまはまことの神にしてまことの人であり、私たちを一切の罪から救い出してくださる救い主であることが明らかにされたのです。
そして、イエスさまが捕らえられ十字架にかけられたときにイエスさまを見捨てて逃げてしまった弟子たちが、再び立てられて、全世界にキリストの福音を宣べ伝える者として出て行きました。その弟子たちは、何よりも「主イエスさまの復活の証人」として召され、遣わされ、宣べ伝えてきたのです。
さて、きょうの福音、マルコ福音書16章1節から8節は、イエスさまが復活した日曜日の朝の出来事を伝えています。この8節で元々のマルコ福音書は終わっていたと考えられています。9節以下に記されていることは、マタイ福音書やルカ福音書に記されている復活の記事を要約したものです。この9節以下は大きな鍵カッコでくくられて、結び一、結び二、と小見出しが付いています。このカッコが付いている箇所は、聖書の目次の前にある「凡例」三の(6)には、「新約聖書においては、後代の加筆と見られるが年代的に古く重要である個所を示す」、と後で教会が書き加えたものであることをはっきり示しています。
では、どうして後の教会は、マルコ福音書に書き加えたのでしょうか。それは、8節に《婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである》
とありますが、これで福音書が終わりというのは何とも心許ない、と後の教会の人が思ったからでしょう。
しかし、8節で終わっていても十分にマルコ福音書はその目的を果たしているのです。なぜなら、イエスさまが復活したということは、マルコにとってもこの福音書を読む教会においても大前提のことだったからです。マルコ福音書は、イエスさまが十字架にかかり、復活してから30年程経ってから記されました。イエスさまの直接の弟子たちが高齢になり亡くなっていく危機の中で、イエスさまと行動を共にした弟子たちの証言をまとめるために記されたものです。ですから、これを記したマルコにしても、この福音書を読んだ教会の人たちも、イエスさまが復活したこと、そして礼拝において聖霊として自分たちに臨んでくださり御言葉を与えてくださっていることは、信仰の生活の大前提となっているのです。
きょうのみことばは《安息日が終わると》
(マルコ16章1)と始まります。安息日は、金曜日の日没から始まり土曜日の日没まででした。この安息日には、当時のユダヤの規定では、人々は何もすることができません。イエスさまが十字架の上で息を引き取ったのが金曜日の午後3時。日没まであまり時間がありません。アリマタヤ出身のヨセフという人がイエスさまの遺体を引き取り、自分の所有する墓に納めました。日没までの慌ただしい葬りでした。イエスさまに従っていた女性二人、マグダラのマリアとヨセの母マリアが、イエスさまの遺体が納められた場所を見届けました。しかし、日没となり、彼女たちはそのまま帰りました。
土曜日の日没と共に安息日は終わりました。そして、夜には墓に行かず、日曜日の朝、東の空が白々としてくる頃を待って、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの三人の女性が、イエスさまの墓に向かったのです。イエスさまの遺体に香料を塗るためでした。
当時のユダヤのお墓は横穴です。高さ1メートルほどの横穴を掘り、そこに遺体を納めます。そして、入り口は大きな石でふたをするのです。女性三人でその大きな石を動かすことはできません。けれど、とりあえず墓に行きました。すると、その墓の入り口の石はすでにわきに転がしてありました。
なぜ、石はわきへ転がしてあったのでしょうか。イエスさまが復活して墓から出て行くためか。そうではありません。復活したイエスさまは、弟子たちが鍵をかけておいた部屋にも入ってきて、「平和があるように」と言いました(ヨハネ20章19)。ですから、復活のイエスさまが墓から出るのに、わざわざ石をわきへ転がす必要はなかったのです。この石がわきへ転がしてあったのは、この女性たちが墓の中を見て、そこにイエスさまの遺体がないことを確認させるためだったのです。そして彼女たちが、天使によってイエスさま復活の知らせを受けさせるためでした。この女性たちが復活の証人となるために、石は転がしてあったのです。
《墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた》
(5)とあります。「白い長い衣を着た若者」とは、天使のことです。驚いたでしょう。これは聖なる体験であって、科学的に立証できる類いの話ではありません。そして、このとき天使が告げたことは、もっと驚くことでした。《若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」》
(6)。
天使は続けて、女性たちにこう告げました。《さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と》
(7)。ガリラヤはイエスさまが弟子たちと初めて出会い、行動を共にした地、そしてイエスさまが教えを語り、さまざまな奇跡を行った地です。ペトロやヨハネやヤコブといった弟子たちの故郷でもあります。そのガリラヤで、復活の主イエスさまが弟子たちと再び出会うというのです。復活の主イエスさまと出会うことによって、彼らは後に復活の証人とされていくのです。その知らせを受けた女性たちは、当初はただただ恐ろしく、震え上がっていただけでした。《婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである》
(8)ということでした。しかし、故郷に戻っていた弟子たちはガリラヤで復活のイエスさまと出会いました。それよって、彼らは復活の証人となったわけです。
天使はここで、「かねて言われたとおり」と告げましたが、それはマルコ福音書14章28節にある言葉を指しています。ペトロの三度の否認をイエスさまが予告したとき、《しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く》
(28)と告げていたのです。イエスさまの復活はこのように、前もって弟子たちに告げられていたことでした。マルコ福音書10章33-34、9章31、8章31において、三度も御自身の十字架と復活を予告していたのです。しかし、弟子たちはそれがどういうことなのか分かりませんでした。天使に告げられて、そして復活のイエスさまと出会って、初めてその意味を理解できたのです。復活とは、そのように、私たちの想像をはるかに超えている出来事だからです。
天使からイエスさまの復活の知らせを聞いたとき女性たちの味わった恐れは、死んで終わりではない、神さまはおられる。しかも、遠く離れて見ているような方ではなく、私の人生に直接に関わる方としておられる。そのことを思い知らされたのです。そして、その体験はその後、使徒たちもすることになります。そして、それを告げ知らせる群れとして、キリストの教会は立ってきたのです。教会は、この恐ろしさが人生を根底から変えてしまうものであることを知らされた者の群れなのです。神さま抜きに生きていたということが、どれほどとんでもないことであったのかを痛烈に悟った者の群れなのです。
この復活の主イエスさまと出会う所として、主の日の礼拝が守られてきました。その中心に、聞く御言葉としての聖書の朗読と説教があり、見える御言葉としての聖餐があります。復活された主イエスさまは40日の間、弟子たちにその姿を現したのち、天に昇られました。今は天におられます。しかし、その復活の主イエスさまは聖霊としてここに臨み、私たちに語りかけ、また御自分の体と血を私たちに差し出されるのです。主イエスさまと一つにされた者は、主イエスさまの十字架と共に死に、主イエスさまの復活の命と一つにされているのです。ここに私たちの喜び、私たちの慰め、私たちの力があります。ですから、私たちは主イエスさまの復活の出来事を心から喜び祝うのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。主イエスさまは今もなお生きて働いておられます。聖霊を受けてイエスさまに結ばれた私たちも今や新たな使命、新たな命に生きることができますことを喜び、感謝いたします。主イエスさまに栄光が帰せられますように。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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