14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。
《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》
(16)。宗教改革者マルチン・ルターは、この節を「小福音書」と呼びました。まさにこの一節に、キリストの福音、キリストによる救いの良き知らせが要約されています。
3章10節に《イエスは答えて言われた》
とあって、10節から21節までの全体が、イエスさまの言葉とされています。しかしこの16節から21節までのところには、「独り子」とか「御子」という言葉が繰り返し出て来ます。イエスさまが自分のことを「独り子」とか「御子」と言うことに違和感があります。それで、15節の終りでカッコを閉じて、イエスさまの言葉は15節まで、16節からはこの福音書を書いた人の言葉という考え方もあります。聖書の原文にはカッコは付いていませんから、解釈によって付け方が違ってくるのです。以前の口語訳聖書は15節の終りでカッコを閉じていましたし、新しく出た「聖書協会共同訳」もそうなっています。しかし新共同訳のように21節までをイエスさまの言葉とする考え方も成り立ちます。その理由は、16節の原文に、「というのは」、と前の文章との深い繋がりを示す言葉があることです。昔の文語訳聖書はその言葉を意識して訳出して、16節前半は《それ神はその独子を賜ふほどに世を愛し給へり》
となっていました。冒頭の「それ」という言葉によって、15節との繋がりの中で16節が語られていることが示されているのです。内容的にも、15節の《それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである》
と16節の《独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》
とは同じ救いを語っています。その救いは、《神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された》という神の愛によって与えられているのだと語られているのです。ですから、15節でイエスさまの言葉を区切ってしまうのは相応しくないとも言えるわけです。このように、この箇所にはイエスさまの言葉をどこまでと考えるかという問題があります。けれども、カッコがどこで閉じられていようと、ここには、教会が宣べ伝えているイエス・キリストの福音の根本的内容が語られているのです。
「世」という言葉はヨハネ福音書に特徴的な言葉です。「世」は、この世界とそこに生きている私たち人間全体を意味しています。「世」は、神によって造られたのに、神を認めず、信じようとせず、従おうとしない、神に背き逆らっている私たちなのです。イエスさまがまことの光として世に来たというのも、神に背き逆らっている世が暗闇であることを前提としています。罪によって暗闇となってしまっている世に、まことの光であるイエスさまが来てくださったのです。
その「世」を神が愛してくださった、それがここに語られている福音のメッセージの中心です。私たち人間は、造り主である神を神として受け入れず、信じず、従おうとしない罪人なのです。その罪人である私たちを、暗闇に閉ざされてしまっているこの世を、神はそれにもかかわらず愛してくださった。愛される資格などない私たちを愛してくださったのです。
しかもその愛は通り一遍のものではありませんでした。「その独り子をお与えになったほどに」神は世を愛してくださったのです。与えてくださったというのは、独り子なる神、イエスさまがこの世に人間となって生まれ、生きていたということだけではありません。私たちの罪をすべて背負って十字架にかかって死んでくださったということです。神の独り子が罪人である私たちの身代わりとなって死んでくださったのです。そのことによって、父である神は私たちの罪を赦し、私たちをもう一度神のもとで生きる者となし、失われた祝福を回復してくださったのです。それだけではありません。神がその独り子を与えてくださったことには、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んだイエスさまを、神が復活させ、永遠の命を生きる者としてくださったことも含まれています。そのことによって神は、肉体の死を乗り超えて復活と永遠の命を与えるという救いを実現してくださったのです。復活したイエスさまは、私たちの復活と永遠の命の先駆けとなり、私たちにもその救いが与えられることの保証となってくださったのです。
16節の後半には《独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》
とあります。独り子を与えるほどの神の愛によって私たちは永遠の命を得ることができるのですが、その救いは私たちが「滅びない」ために与えられているのです。永遠の命を得るのでなければ、私たちは滅びてしまうということです。神の救いを信じ、それにあずかるためには、その救いがなければ滅びることをしっかりと認識しなければなりません。
そのことは17節以下で語られます。《神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている》
(17-19)。神によって救われ、永遠の命を得るという福音の根本が語られているこの箇所において、その救いがなければ私たちは神によって裁かれ、滅びるのだということが繰り返し語られます。
なぜ、神によって救われることだけに注目するのでなく、神によって裁かれ、滅びることも同時に注目しなければならないのか。それは、神に背き逆らっている罪人である私たちを神が愛してくださったことによって救われるのだからです。私たちは神に背き逆らい、造り主である神を神として信じ従うことなく、自分の思いによって、自分を神として生きている罪人です。その結果、神をも隣人をも愛することができなくなっており、お互いに傷つけ合い、苦しめ合いつつ生きている。それが生まれつきの私たちなのであって、そのような私たちは本当は神に裁かれ、滅ぼされるしかないのです。その私たちを神が愛してくださって、独り子を与えてくださいました。私たちがこの救いにあずかるためになすべきことは、独り子をお与えくださったほどの、この神の愛を信じて受け入れ、神の独り子、イエスさまを救い主と信じることだけです。それは逆に言えば、御子を信じることなしには、神の愛によって与えられる救いにあずかることができないということです。
ですから、神が私たちを愛して、独り子を与えてくださった、その救いのみ業によって、私たち人間は二つに分けられていきます。独り子を信じて、神の愛による救いを受け、永遠の命を与えられていく者と、御子を信じることなく、救いを受けることなく、裁きと滅びへの道を歩み続ける者との二つです。18節に《御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである》
とあるのはそのことを語っています。19節の《光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている》
というのも同じことを語っています。まことの光であるイエスさまを受け入れないことが、すでにその人々の裁きとなっているのです。このように裁かれない者と裁かれる者、救われる者と滅びる者とが「分けられる」ということが、本来の意味での神による裁きです。神の裁きによって、救いもはっきりと与えられるし、その救いを受けることができない者の滅びも明確になるのです。そういう裁きが、この世の終りに神によって行なわれる、それがいわゆる「最後の審判」です。その裁きが、神が独り子イエスさまを世に与えられたことによってすでに始まっているということです。決定的な救いが示されたところには、神による裁きもまた始まっているのです。
私たちの前に開かれている二つの道のことが、20-21節に語られています。《悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために》
。
悪を行うというのは、何か大それた罪を犯すことではなくて、まことの光として世に来られたイエスさまを信じることなく、この世を覆っている闇の中に留まっているということです。私たち人間が根本的に神に背き逆らっている罪人であることが、イエスさまの光に照らされることによってこそ明らかになるということです。イエスさまによって罪を示され、明らかにされるところにこそ、イエスさまの十字架による赦しの恵みが与えられていくのです。
その反対の、真理を行う者としての歩みは、ことさらに立派な善いことをして生きることではなくて、光の方に来る、つまりイエスさまのもとに来て、その救いにあずかることです。そこで明らかになるのは、その人の行いが立派だということではなくて、彼らは神に導かれて生きているということです。その救いの恵みに生かされることによって、私たちは真理を行う者へと新しくされるのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。私たちを救うために御子イエスさまを私たちのただ中に遣わしてくださったあなたの愛に深く感謝いたします。御子イエスさまの招きに応えようとしている私たちを迎え入れ、「永遠の命」を共に生きる者としてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
© Sola Gratia.
powered by freo.