Sola Gratia

イエスのバプテスマ

4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。7彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

9そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。10水の中から上がるとすぐ、天が裂けて"霊"が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。11すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

マタイ福音書とルカ福音書は、イエスさまのご降誕によって、預言されていた神の約束が実現したことを告げています。一方、マルコ福音書は、旧約聖書に「主が来られる前に、その道を準備する者が神から遣わされる」という預言があったことを語ります。そして、主より先に遣わされた者として「洗礼者ヨハネ」が荒れ野に現れて、《わたしよりも優れた方が、後から来られる》(7)と述べます。そして、その通りに、後からイエスさまが来られたのです。こうしてマルコは、ガリラヤのナザレから来られたイエスという方こそ、すべての預言が指し示している、神が遣わされた「救い主」であることを指し示します。

《洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた》(4)とあるように、ヨハネはヨルダン川で、水によって、人々に悔い改めの洗礼を授けていました。

「悔い改め」とは、人が、今まで神を忘れ、神から離れていた自分勝手な歩みをやめて、神のもとに立ち帰ること。方向転換して神の方を向くということです。ですから、聖書が語る「罪」とは、外から要求される宗教的・道徳的規範に違反することではなく、自分の本性の神に背いてやまない性向を意味します。神に創造された人間は、神と向かい合って、神と共に生きることを望まれているが、その神との正しい関係を壊して、神から離れてしまうことを「罪」と言うのです。

さて、洗礼者ヨハネのもとには、ユダヤの全地方とエルサレムの住民が皆やってきて、この悔い改めの洗礼を受けたと書かれています。人々は荒れ野に現れたヨハネの姿や、その語ることを聞いて、いよいよ旧約聖書の時代から先祖代々待ち望んでいた「救い主」が現れることを知りました。

ヨハネは悔い改めを呼びかけます。神の方を向かず、背を向けたままでは、神が差し出す恵みを受け取ることはできません。ヨハネの悔い改めの洗礼は、人々の心を神に向けさせました。そして、これから神が与えて下さる罪の赦しを得させるために、備えをさせたのです。

洗礼者ヨハネは来たるべき方をこう告げ知らせました。《わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる》(7)。後から来られる方はヨハネより優れた方であり、ヨハネはその方の履物のひもを解く値打ちもないといいます。履物のひもを解くのは奴隷の仕事です。ヨハネは、自分はその方の奴隷になる価値もない、それほどの方が来られると言っているのです。しかも、その方は水ではなくて、聖霊で洗礼をお授けになるといいます。

ところが、イエスさまは、ガリラヤのナザレという田舎町から出て来て、多くの人々と一緒に列に並んで、その一人として、ヨルダン川でこのヨハネから悔い改めの洗礼を受けたのです。

悔い改めの洗礼を受けるということは、悔い改めるべき罪人であるということです。イエスさまは多くの悔い改めるべき罪人と同じところにご自分の身を置いたのです。この正しい方が罪人と同じように悔い改めの洗礼を受けたことは、重大な意味があります。

この正しい方であるイエスさまが罪人と同じところに身を置いたのは、すべての罪人の罪を代わりに担うためです。そのために、神の栄光を捨てて、罪人にまでご自分を低くされたのです。悔い改めの洗礼を受けるということは、ご自分が罪人となり、罪人として裁かれ、十字架に掛けられ、その苦しみと死に至る歩みを受け入れるということです。十字架の上で《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》(15章34)と叫ばなければならない、わたしたちの代わりに、罪人の最も深い苦しみの中にご自分の身を置くということなのです。

罪人であるわたしたちは、自分の罪を自分で償うことはできません。神から離れ、神に背く罪は、それほど重いものなのです。この一人の正しい方が、清いいけにえとなり、ご自分の命を献げて、わたしたちの罪を償わなければ、わたしたちは自分の罪によって、死に捕らえられ、滅びるしかない者なのです。

しかし神は、そのようなわたしたちをも愛し、ご自分の御子をわたしたちを生かすために世に遣わし、すべての罪を負わせること、御子の十字架の死によって、わたしたちに罪の赦しを得させてくださるのです。このことは、神ご自身がわたしたちの救いのために計画してくださっていたことでした。

このように、《そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた》(9)とたった一節で語られた出来事は、イエスという方がどのような方か、わたしたち罪人のためにご自分をどれだけ低くなさったか、どのようにして救いの御業を成し遂げようとしているかを示しているのです。

こうして、イエスさまが悔い改めの洗礼を受けるところから、神の計画がいよいよ本格的に動き出すのです。旧約聖書の時代が終わり、神による新しい救いの歴史が、神の子イエス・キリストによって始まります。

イエスさまが洗礼を受けて、ヨルダン川の水の中から上がられると、すぐに天が裂けて、聖霊が鳩のようにご自分に降ってくるのをご覧になったとあります。そして《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》(11)という声が天から聞こえました。これはイエスさまご自身が見て聞いたことだと語られています。

「天が裂ける」というのは、神がご自分を現されるときの表現です。そして、神の霊である聖霊がイエスさまに降ったというのは、このときイエスさまが、神の御業を行なう務めに召し出されたことを示しています。

旧約聖書の時代には、神から特別な務め、すなわち王や祭司や預言者の働きを与えられる者は、任命のときに油を注がれました。油は神の霊の象徴であり、神の霊が注がれることでその特別な任務に就き、そしてそのための力が与えられたのです。この「油注がれた者」というのが、「メシア」という言葉の意味です。まさにこのとき、神の霊が注がれて、イエスさまは「メシア」(=救い主)として立てられたのです。

それから、イエスさまは《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》(11)という声を聞きました。この「適う」という言葉は、「喜ぶ、選ぶ、定める」という意味を含んでいます。天の父なる神が、イエスさまはご自分の愛する子、神の子であること。そして、心に適う者、つまりご自分の御心、思いを実現する者だということを告げたのです。

聖霊が降るのを見て、神の声を聞いて、イエスさまは、いよいよここから、神の御心を実現するために、救いの御業を成し遂げるために、苦難の僕として、歩み出されるのです。

ところで、洗礼者ヨハネが《その方は聖霊で洗礼をお授けになる》(8)と告げたことは、イエスさまが十字架の苦しみを受け、死んで、罪の赦しの御業を成し遂げたことによって、実現しました。神の救いの新しい歴史が始まり、洗礼の意味も、与えられる恵みも、大きく、新しくなりました。

洗礼者ヨハネの洗礼は、悔い改めと、罪の赦しを求める「しるし」としての洗礼でした。しかし、主イエス・キリストが十字架と復活によって救いの御業を成し遂げた今や、ペンテコステの後に聖霊によって生まれた教会が、イエス・キリストの名によって授ける洗礼は、キリストの救いを信じる「しるし」であり、「賜物として聖霊を受ける」のだと言われています。

この洗礼においては、聖霊なる神が働いてくださいます。悔い改め、イエスさまによる罪の赦しを信じる者を、復活して天におられるイエスさまご自身と、一つに結び合わせてくださるのです。そのことによってわたしたちは、罪のために自分が死ななければならなかった死を、イエスさまの十字架の死によって死ぬことになり、また、イエスさまの復活の命に結ばれて、わたしたちもイエスさまと共に永遠の命を生きることになるのです。

そして、神の子であるイエスさまと結ばれることによって、わたしたちも神の子とされます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との天の父なる神の言葉を、わたしたちも聞くことができ、また聖霊なる神に力を与えられて、神の御心を尋ね、神と共に、神に従って生きる者へと変えられていくのです。

わたしたちは、主イエス・キリストの十字架と復活によって実現した、この聖霊による洗礼を受け、イエス・キリストの正しさも、勝利も、永遠の命も、この方が持っているすべてが、わたしに与えられるのだ、と言うことができます。

しかし、このことは、イエス・キリストが悔い改めの洗礼を受けて、わたしの苦しみも、罪も、死も、すべてをご自分のものとしてくださったことによって、実現したことなのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子は洗礼を受けことによって、さらには十字架の贖いによって、救いの道を開いてくださいました。この恵みにあずかる洗礼に生涯とどまれますよう、この新しい年も私たちを日々導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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