Sola Gratia

羊と山羊のたとえ

31「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 32そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 33羊を右に、山羊を左に置く。 34そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

41それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。 42お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 43旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』 44すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 45そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 46こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

教会の歴で一年の最終の主日です。「最後の審判」を描く箇所が読まれました。最後の審判とは、イエスさまの十字架において起こった救いが完成する時のことです。それはイエスさまが再び来られる「再臨」によって起こります。イエスさまの十字架において、神は私たち人間の罪を裁き、私たち人間に赦しを与えてくださいました。そして、最後の審判のときに、このイエスさまの十字架において起こった神の裁きと赦しが実現するのです。

さて、イエスさまは、ご自分を「わたしは」と言わず、《人の子は》(31)と言います。「人の子」とは、メシア(救い主)の称号です。イエスさまは旧約聖書以来のメシアのイメージにもとづいて、ご自分が王として来臨し、《栄光の座》(31)に着くと言います。そのとき、諸会堂で教え、神の国を宣教し、病んだ者を癒しつつ歩み、ついに十字架で刑死されたあのイエスさまが、神ご自身であり、真の支配者であることが明らかになるのです。

イエスさまが栄光の座に着くと、《すべての国の民がその前に集められ》(32)ます。ユダヤ人も異邦人も、富める者も貧しい者も、イエスさまの御前に集められるのです。そのことが、羊飼いの働きにたとえて語られます。羊と山羊は同じような姿をしていますが、性質はずいぶん違うので、羊飼いは羊と山羊を分けて扱わなければなりません。

このたとえで大切なことは、この仕分けが羊と山羊の価値の違いではなく、羊飼いとの関係によるという点です。羊の方が山羊よりも羊飼いとの関係が濃いのです。羊は羊飼いの守りがなければ生きていけない動物です。ですから、右側に集められた者たちは、羊飼いと羊の関係に似て、イエスさまとの交わりがはっきりある者たちであり、左側に集められた者たちは、羊飼いと山羊の関係に似て、イエスさまとの交わりがはっきりしない者たちであると言うことです。

そこで、右側は、神に義と認められたという意味で《正しい人たち》(37)が集まっています。彼らに対して、《さあ、わたしの父に祝福された人々》(34)と呼びかけます。祝福するお方は父なる神、祝福を受けるのはイエスさまに従って来た人々です。彼らは、イエスさまが神の子であるのと同じように神の子とされた者たちです。ですから、イエスさまは彼らに、《天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい》(34)と言っています。父なる神は天地創造の初めから、イエスさまにおいて私たちが失われた者とならないで、生き続けることを望んでおられたことが分かります。

次に、イエスさまはなぜそのような祝福を与えるのか、その理由を明らかにします。《お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ》(35-36)。ところが、このような愛の業に対して、祝福された者たちは、驚くべきことに、まったく身にお覚えがないと言います。それに対してイエスさまは、《わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである》(40)と応えます。

ここで聞くべきことは、イエスさまは苦しみの中にある者と連帯しているということです。これは、イエスさまが人間に成られたことに基づいていますが、それだけでなくさらに、イエスさまはそのことを、「遣わされた者を受け入れる」という観点から語っています。《あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである》(マタイ10章40)。そして、《はっきり言っておく。わたしの弟子という理由で、この小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ず報いを受ける》(10章42)とあるように、父なる神がイエスさまを遣わし、イエスさまは弟子たちを遣わすという関係が言われています。ですから、弟子たちの中でも「最も小さい者」を受け入れ、愛の業を行うことは、イエスさまと父なる神を受け入れることだと言っているのです。要するに、イエスさまは、父なる神と御自分を苦しむ人たちに結びつけて、彼らを「わたしの兄弟」と呼ぶのです。

次にイエスさまは左側にいる者たちに対しても宣告します。こちらは、神に義と認められない者たちです。まず《呪われた者ども》(41)と呼びかけます。「呪い」とは、祝福の反対語であって、もともと神に供えた物が受け入れられないことを指しています。つまり神との交わりに受け入れられていないのです。

そしてイエスさまはご自分との交わりに入らない者に対して、《わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ》(41)と言います。ここでのポイントは、「わたしから離れ去り」です。イエスさまとの分離が決定的となるということです。イエスさまとの結びつきなど無くても構わないと考える人もいるでしょう。しかしイエスさまは、それは悪魔と同様に見なされ滅ぼされることであると言います。イエスさまから離れて罪の赦しを失うなら、私たちは「火」によって表される神ご自身の完全な正しさによって滅びてしまうということです。日頃、私たちは命を自分の持ち物のように考えて暮らしています。けれども本当は、イエスさまとの交わりがあってこそ、命があり、今も、将来も生き続けることができるのです。

左側の人々は不服を言います。自分たちはイエスさまに対してちゃんと愛の業をしたと言うのです。それに対して、イエスさまは次のように言います。《この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである》(45)。このように、イエスさまは愛の何であるかを示します。最後の審判においては、自分がイエスさまの愛に生かされ、またイエスさまの愛を活かしたかということが問われるのです。

イエスさまはこの話によって私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。それは、世の終わりにはすべての国の民がイエスさまのみ前に集められ、裁きを受けること。そしてそこで問われるのは、「わたし」つまりイエスさまに対してどういうことをしたかだということです。救いと滅びを分けるのは、イエスさまに対してどのようなことをしたか、しなかったかです。ですから、神やイエスさまのことはどうでもよい、それよりも身近にいる弱い貧しい人に手を差し伸べることの方が大事だというのは誤解です。世の終わりにふたたび来るイエスさまとの関係こそが大事なのであって、それが救いと滅びを分けるのです。

しかしそのことが、単純に、イエスさまを信じて、信仰生活を送った人が救われ、そうでない人は滅びるというふうには語られていないところが、この話のポイントです。ここには、すべての者の裁き主であるイエスさまが、信仰をもたない人が行なった一人の小さい、弱い、貧しい人への愛の行為、それを「わたしにしてくれた」(40)こととして受け止めてくださり、それによって、その人が意識していなくても、その人とイエスさまとの間によい交わりを生み出して、永遠の命へと受け入れてくださる、そういう恵みを語っています。洗礼を受け、信仰者になった者だけが救われるわけではなく、イエスさまによる救いはもっと広く、多くの者たちに及んで行くということが語られているのです。

私たちは、イエスさまを信じ、イエスさまに仕えようと志しています。信仰を持っていない人との違いは、私たちがそういう自覚を持っているということです。しかしそういう自覚があるからといって、私たちができることは、そうでない人に比べて決して多くはありません。けれども、イエスさまはそのような私たちが日々の生活の中で、共に生きる人々に対して行ったごく小さなことであっても、「わたしにしてくれた」と受け止めてくださいます。そして、「あなたはわたしに善いことをしてくれた、だからあなたは永遠の命にあずかるのだ」と言ってくださるのです。私たちが最後の審判において、滅びではなく救いにあずかるとしたら、そのようなイエスさまの無償の恵みによってでしかありません。つまり、わたしたちは信仰者だから救われるのではなくて、イエスさまの恵みによって救われることを知っているから信仰者なのです。イエスさまがその無償の恵みを、信仰者でない人にも及ぼしてくださるとしても、少しも不思議なことではないのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。私たちがイエスさまの愛の御業によって救われ、天の御国へと招かれていることを感謝します。その愛と恵みの御心を受けて、小さい者たちと連帯して生きることができるよう私たちをお導きください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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