Sola Gratia

主の赦しのもとで

15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。16聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。17それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

18はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

《兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる》(15)。誰かが罪を犯したとき、私たちはそれにどのように対処するべきなのか。イエスさまはここでその対処の方法を順序立てて命じています。

けれども、まずは、ここの前の段落で話されたことが前提にあることに留意しましょう。群れから迷い出た1匹の羊を、羊飼いが99匹を残して捜しに行くというたとえが語られました。そして、《これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない》(14)と告げられました。この小さな者が一人でも滅びないようにすることが、教会のあり方であるということです。

そしてきょうの箇所で、具体的に罪を犯した者に対しての対処の仕方が語られます。この「具体的に罪を犯した者」が「群れから出て行った一匹の羊」です。その人に対して教会がとる対応の目的は、小さな者が滅びることのないようにすることです。

ですから、まず私たちにとって大切なことは、私たちの罪を赦すために十字架にかかったイエスさまの犠牲と、そこに現された神の大きな憐れみを思い起こすことです。罪を犯した兄弟姉妹たちを断罪する前に、悔い改めに導いて兄弟姉妹を失わないように神に祈り求めることを、イエスさまは命じます。

私たちはともすれば陰で人の悪口を言いながら、面と向かって本人に意見することを避ける傾向があります。けれども、そういう表面的な対処の仕方で人間の心も教会の信頼関係も修復されるはずはありません。神が求めている絆の回復は、神の正しさの前に人が悔い改めて立ち帰って、失われた羊の命が保たれること、そして教会がそれを神の憐れみのゆえに受け入れることで果たされます。

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」とありますが、実は、ここには本文の問題があります。「あなたに対して」との一句が写本によってあったりなかったりします。結論を言えば、五分五分です。翻訳聖書もまちまちです。ルカ17章3節の並行記事も「もし兄弟が罪を犯したら」となっており、「あなたに対して」という句はありません。ですから、何か問題が起こった場合の当事者間での争いに限定することも難しいと思います。相手が自分に対して明白に罪といえる仕打ちをした場合に限らず、兄弟姉妹の重大な違反に間接的に関わった場合も考えられます。

ここで、「罪を犯す」とはどういうことを指しているのかは明確には規定されていませんが、罪とは主なる神との契約条項(律法)に違反する行為であり、十戒とかその他のユダヤ教の基本的な戒めに違反する行為を罪としていたことは推察できます。

このときなすべきことは、《行って、・・・忠告》(15)することです。「行って」、すなわち二人だけのところで、「忠告する」、すなわち「責めること」もしくは「罪を明らかにすること」です。本人もそうとは気づいていないかもしれませんから。

罪に対する責めが抱える難しい問題は、「罪を指摘すること」そのものにあるのではなくて「責め方」の問題、また、責める者の資格の問題だと思います。また、罪の指摘をすれば必ず帰ってきそうな言葉は「おまえに何でそんなことを言われなければならないのか。放っておいてくれ」との反発でしょう。誰に罪を責める資格があるかと言えば、神をおいて他にはありません。ですが、聖書の指針が与えられていて、罪が明白にされながら、キリストの名を与えられた教会の兄弟姉妹には、そうした罪のぬるま湯につかっている状態から、もっと積極的な愛と赦しとの関係が与えられるはずです。キリストの体を形作る教会員ひとり一人が、その良き交わりへの新しい召しに熱心であるときに、互いの罪を訓戒し合うことのできる力は、キリストの愛が実を結んだしるしであって、交わりの成熟度を表します。

こうした訓戒は一対一の個人的な面談から始まります。率直に相手にその意図を問いただすことができれば幸いです。そこで和解が果たされれば、交わりの内部で生じた傷を最小限に食い止めることができます。また、罪を犯した当事者も仲間に対していたずらに面目を失わずに済みますから、この段階は大切です。

個人による罪の指摘が悔い改めを導くことができなかった場合、さらに一人か二人の仲間が呼ばれます。この場合、初めに罪を指摘した当人も証人に数えられて、違反した兄弟に対する証人は「二人または三人」になります。複数の証人によって事柄を見極めようとする公平な方法が、神の御旨に適ったイスラエルの伝統的な裁判の指針でした。

そして、最後の段階では「教会」で判定が下されます。イエスさまはペトロに鍵の権能を与えましたが、それは「教会」に与えられたものです。《あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる》(18)。「つなぐ」とは罪を確定することであり、「解く」とは罪の赦しを宣言することです。教会でなされた最終的な裁定は、天で下されるものと同一ということです。洗礼の許可もそうですけれども、戒規ということについても、教会に与えられている権能は、天でキリストが持っておられる権能であることを私たちは真剣に受け止めなくてはなりません。教会の判断が誤る可能性は当然あります。ですが、人間のすることだから当てにできないと安直な見方をするのは、聖書とキリストへの信仰に反します。限界のある、罪から免れ得ない人間の判定が、正しくキリストの判断となるために、最大限努力して、聖霊の導きを熱心に祈りながら、教会は神への畏れと、罪を犯した兄弟姉妹への愛をもって、裁定を下します。それをまた、最大限尊ぶのはキリストから教会を託されている会員の義務です。

このような丁寧な段階を踏んで、何度も悔い改めを求めても、反省が得られない場合、《その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい》(17)とイエスさまは言います。当時のユダヤ人は彼らを神に背く罪人と見なして、一切関係を持ちませんでした。その人との兄弟姉妹としての交わりを断つということです。これは、教会の伝統で言えば、陪餐停止、さらには除名ということになります。

「除名」は、もはや地上のキリスト教会ではその者をキリスト者としては承認しないことを意味してはいますが、「異邦人や徴税人」がイエスさまに出会って悔い改めて救われたように、真の悔い改めに導かれた時には、再び教会に受け入れられます。失われた者を探し続ける神の憐れみは、人間が取り去ることはできません。

19節と20節に加えられた聖句は、神が教会に与えている権能を示しています。《どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる》(19)。この御言葉は、教会の祈りのあらゆる場合に当てはまることですが、ここで求められているのは、そのような一致を兄弟姉妹たちとの間に持つように、とのことです。地上での教会生活で躓いて、天国の絆から解かれてしまった兄弟姉妹たちがいるのは悲しいことです。その痛みを受け止めて、祈りを合わせるならば、どんな願いも父が叶えてくださると言います。信仰を捨てて、去って行った者に希望が無いということはありません。

そして、《二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる》(20)とイエスさまは言います。ユダヤ教では十人以上の男性がいなければ「礼拝のための集会」とは認められませんでした。イエスさまはそれよりもずっと小さな人数の交わりの意義を認めています。二人また三人と、問題を起こした兄弟姉妹のところに集まって、解決を見いだそうとしていたとき、また、教会にそれが持ち上がって裁判にまで発展したようなとき、キリストは実にその中に居られます。兄弟姉妹の交わりの中で罪を犯した者が、素直に悔い改めるのは、そこにキリストがおられる、ということが証しされる交わり、小さくされた者の交わりの中でしかないだろうと思われます。

兄弟姉妹の罪の譴責という点で、私たちに促されているのは互いに責任を負い合う、上辺ではない本当の愛の交わりを形作るための訓練です。その意義を心に留めて、イエスさまから与えられた権能を忠実に用いて、天の御国の幸いをここで味わうことのできる教会とされたいと願います。

祈りましょう。天の父なる神さま。私たちひとり一人は罪の誘惑に弱く、自分自身の罪を顧みずに兄弟姉妹を裁く愚かさも持っています。どうか、聖書の教えに従って、互いに仕え合う中で、躓きを一つ一つ乗り越えさせてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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