2ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、3尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」4イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。5目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。6わたしにつまずかない人は幸いである。」7ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。8では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。9では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。10『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。11はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」
先週はマタイ3章から洗礼者ヨハネの教えを学びましたが、今週はマタイ11章から洗礼者ヨハネの問いを学びます。
ヨハネは《悔い改めよ。天の国は近づいた》
(3章2)と呼びかけました。それは、彼が最終的な神の裁きが間もなく行われると確信していたからです。神が審判を下す終わりの日は差し迫っている、と彼は信じていたのです。《ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。・・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる』》
(3章7-10)。
ヨハネにとって来たるべきメシアとは、第一に力ある王なのでした。神の権威をもってこの世界に君臨し、この世の悪を正しく裁くことのできる王です。彼は脱穀のイメージ(3章12)を用いて、こう語ります。農夫が箕をもって麦を空中に放ると風がもみ殻を吹き分けます。そして麦は倉に入れられ、殻は焼き払われます。そのように、最終的な神の裁きもメシアを通して行われると言うのです。要するに、ヨハネはあくまでも、最後の裁きをなさる方としてのメシアを語っているのです。そして、そのヨハネが「この人こそ来たるべきメシアだ」と信じていた人物こそ、あのナザレのイエスさまだったのです。
やがてヨハネは捕らえられ獄中の人となりました。ヨハネが牢の中にいる事の顛末は14章に記されています。簡単に言えば、領主ヘロデの罪を指摘し、糾弾したのです。領主ヘロデにも悔い改めを求めました。しかし、彼は投獄され、ヘロデは何もなかったかのように平和に生活をしています。それはヨハネにとっては決して想定外のことではなかったでしょう。それがこの世の現実であるからこそ、メシアは来られるのです。この世は正しく裁かれなくてはなりません。この世の悪の力によって投獄されたヨハネは、いよいよイエスさまへの期待を膨らませたに違いありません。自分が世の中から去った後、イエスさまはどのような行動を起こすのか。神の裁きの風はどのように吹くことになるのか。
ところが、いつまで経っても、何一つ期待どおりのことは聞こえてきません。《ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた》
(2)とあります。ヨハネは何を聞いたのでしょう。伝え聞くところによれば、イエスさまの周りにはいつでも悪霊に憑かれた人や病気で苦しむ人が集まっていて、彼らをいやしているらしい。それはまだしも、罪人や徴税人たちを集めては一緒に食事をしているらしい。それだけではありません。イエスさまは弟子たちに《悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい》
(5章39)と教えているのです。さらには、《あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい》
(5章40)などと教えているらしい。挙句の果てには《天の父である神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる》
(5章45)というような教えを説いているとのこと。いったい麦と殻を吹き分ける風はどうしたのでしょう。殻を焼き払うはずの火はどこにあるのでしょう。獄中にいるヨハネは揺らぎました。《ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』》
(2-3)。
その問いに対して、イエスさまはこう答えました。《イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである』》
(4-6)。
ヨハネはメシアの到来のために道を準備するために遣わされた人でした。彼はその準備を終えて、社会から消えます。そのヨハネについて、イエスさまは《およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった》
(11)と高く評価しながらも、すぐに《しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である》
(11)と続けます。イエスさまがもたらした「天の国」に属する者は、どのように小さい者でもヨハネより偉大なのです。イエスさまがもたらした「天の国」の福音はヨハネが与えるものとは次元が違うのです。
ヨハネによって道が準備されたその先にいったい何が起こっているのか。イエスさまはヨハネの弟子たちに「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と言いますが、このときにイエスさまが列挙した御業は、イザヤの預言の成就であることを示しています。《そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる》
(イザヤ35章5-6)。
イエスさまが病人を癒し、貧しい者に恵みを告知する働きは、イスラエルが期待していたメシア、すなわち異教徒の支配を滅ぼす終末的審判者としてのメシアの姿とは違います。イスラエルは自分たちが期待していたメシアでないことに失望して、イエスさまに「つまずく」のです。しかし、イエスさまが行っている力あるわざ自体は、イスラエルの人々にとって神の栄光を現わし、預言の成就であることを示すしるしです。「つまずき」はとくに最後の「貧しい人は福音を告げ知らされている」事実にあります。イエスさまが言う「貧しい人」というのは、律法を守ることができない者たちとして、律法学者たちから「罪人」と呼ばれてさげすまれている人たちのことです。この「貧しい人たち」をそのままで(律法を守れないままで)神の支配に招き入れるのが、イエスさまの福音であったのです。このイエスさまの「恵みの支配」の福音に、「律法の支配」に固執するユダヤ教指導者たちはつまずいたのです。
ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えました。しかし、悔い改めとは何か。神から罰せられないように、悪いことを改めて良い人間になることではない。神の怒りを免れるために、悔いて改めることでもない。悔い改めとは方向を変えること。方向を変えて神のもとに立ち帰ることです。悔い改めとは神への復帰です。神を離れた生活の方向転換をし、神に立ち帰ることです。そして、神のもとに帰るのは、まことに神を神として、神と共に生きるため、神の愛の内を生きるためです。イエスさまはその意味において、来たるべき方だったのです。神が自らを現されるために遣わされたメシアとして、来たるべき方として来られたのです。であれば、そこにはすでに始まっていることがあるはずです。
確かにこの世界は正しく裁かれるべき世界です。この世界を不義が支配しています。正義はねじ曲げられています。正しいヨハネが投獄されるようなことが今日においても起こります。不当な苦しみがある。理不尽な悲しみがある。暗闇が依然として覆っている世界です。しかし、まだ夜が明けていない暗闇の中に、すでにメシアは来たのです。ですから、すでに始まっていることがあるのです。確かにあります。ここにも見ることができます。ここには神のもとに立ち帰って、礼拝をささげている人々がいます。ここには神の赦しがあり、私たちの内に働く神の回復の御業があります。私たちはすでに神の憐れみに触れながら生活しているのです。その意味ですでに天の御国を味わい始めているのです。そこにしっかりと目を向けて生きていきましょう。
祈りましょう。天の父なる神さま。あなたはこの世界に救い主を与えてくださいました。あなたの良き業がこの世にも私たちの人生にもすでに始まっています。その事実にしっかりと目を向けて信仰をもって歩んでいくことができますように。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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