15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。 20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」 22イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。 23イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
きょうの箇所も先週と同じく、「最後の晩餐」において、イエスさまが弟子たちのために語ったみ言葉です。この晩餐の後すぐにイエスさまは捕えられ、翌日には十字架につけられます。それによってイエスさまは弟子たちのもとを離れ去ろうとしています。弟子たちはこれまでずっとイエスさまと共に歩んできましたが、これからは、イエスさまが目に見える仕方では共にいない中を生きていくことになります。イエスさまは、その弟子たちのこれからの歩みのことを案じつつ、このみ言葉を語ったのです。
イエスさまが弟子たちに語ったことは先ず、「私はあなたがたのもとを去って行くが、それによって父である神のもとに行くのだ」ということでした。イエスさまは捕らえられ、十字架につけられて殺されようとしています。しかし、それはイエスさまの敗北や破滅ではありません。殺されてそれで終わりではなくて、イエスさまは復活して、父なる神のもとに行かれるのです。それによってイエスさまの神としての栄光が現され、父なる神が独り子イエスさまをこの世に遣わすことによって成し遂げようとしている救いのみ業が実現するのです。つまり、イエスさまが父のもとに行くことによってこそ、弟子たちをはじめイエスさまを信じる信仰者たちの救いが実現するのです。
しかし、イエスさまは父のもとに行くということだけを語ったのではありません。イエスさまは十字架と復活を経て父なる神のもとに行くと言ったあとに、《わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る》
(18)、とも約束してくださったのです。そしてそのことは、父なる神が《別の弁護者を遣わして》
(16)くださることによって実現するのだと言います。
聖霊が別の(もうひとりの)弁護者と呼ばれるのは、《この霊があなたがたと共におり、あなたがたの内にいるからである》
(17)わけですが、それは、第一の《弁護者》
(1ヨハネ2章1)であるイエスさまが父なる神のもとに行って、ご自分に代わる別の弁護者の派遣を父にお願いして、それに答えて父なる神が聖霊を遣わしてくださるということです。聖霊が遣わされることは、イエスさまご自身が弟子たちのもとに戻って来て、共にいてくださるということでもあります。ですから、聖霊は《キリストの霊》
(ローマ8章9)とも呼ばれています。聖霊が弟子たちに降り、彼らの内に宿ってくれることによって、天にいるイエスさまが戻って来て、共にいてくださることを彼らは体験するのです。最後の晩餐においてイエスさまはそのことを約束してくださいました。この約束は、弟子たちに聖霊が降って教会が誕生したことによって実現しました。
私たちは今、天に昇られたイエスさまの姿をこの目で見ることはできません。それでも、聖霊が私たちの内に宿り、み業を行ってくださることによって、イエスさまが私たちを決して独りぼっちのみなし児にはしておかずに、私たちのところに来て、共にいてくださることを体験しているのです。
また、《かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる》
(20)とあります。「かの日」とは弟子たちに聖霊が降る日です。つまりここにも、聖霊が降ることによって弟子たちに実現する恵みの約束が語られているわけですが、それは同時に、聖霊の働きによって今私たちに与えられている恵みでもあります。私たちも、「イエスさまが父なる神の内にいる」ということを、つまり父なる神と独り子であるイエスさまが一体となって私たちの救いを実現してくださっていることを、聖霊によって信じさせてもらうのです。聖霊はさらに、「イエスさまが私たちの内におり、私たちもイエスさまの内にいる」、ということも分からせてくれます。
弟子たちに、そして私たちにも、イエスさまと父なる神を信じる信仰を与えて、イエスさまと一つに結び合わせ、イエスさまによる救いにあずかる群れである教会を築いてくれているのは、イエスさまの願いによって父が遣わしてくださった聖霊です。その聖霊のことが、ここで《弁護者》
(16)と呼ばれていることに注目したいと思います。
しかし、聖霊がしてくれていることは、神の裁きにおける弁護だけではありません。私たちに対しても、あなたが自分の罪や弱さにどれほど苦しみ、自分など生きている意味がないと絶望しているとしても、神は独り子の命を与えるほどにあなたを愛し、大切に思い、イエスさまの十字架の死によってあなたの罪を赦してくださっているのだ、と告げてくれるのです。聖霊なる神はそのようにして私たちにイエス・キリストによる救いを信じさせ、イエスさまと結び合わせ、私たちを助け、慰め、新しくして、神の愛の中で生きる者としてくれるのです。「弁護者」という言葉だけでは言い尽くせない広く深い救いのみ業を聖霊はしてくれているのです。
聖霊によってキリストと結び合わされ、キリストの体である教会に連なる者となった私たちは、独り子をすら与えてくださった神の愛の中で新しく生きる者となります。その新しい生き方が本日の箇所に示されています。
先ず、《あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る》(15)とあります。つまりイエスさまのみ心に従い、イエスさまが命じた通りに生きていくのです。そのことは、
《わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す》(21)と語られています。イエスさまの掟を受け入れ、それを守る人こそがイエスさまを愛している者です。イエスさまによって実現した神の愛の中で新しく生きる者は、イエスさまを愛し、イエスさまの掟を受け入れ、それを守るのです。
この21節だけを読むと、イエスさまの掟を守ることによって私たちは父なる神にもイエスさまにも愛される者となることができる、というふうにも受け取れます。しかしこれまで見てきたように、私たちがイエスさまの掟を守るから神が愛してくださるのではなくて、神の愛の中で生かされているからこそ神を愛し、イエスさまの掟を守るのです。イエスさまの掟とはどのようなものでしたか。それはこう語られていました。《あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい》
(13章34)。つまり、イエスさまの掟とは、イエスさまによって与えられた神の愛を私たちがしっかり受け止め、その愛の中で生きること、その愛に応えて生きることです。愛されたことに応えることは、愛することによってしかできません。愛されたことに愛することをもって応えるところに、「互いに愛し合う」交わりが生まれます。それがイエスさまの掟、イエスさまのみ心、イエスさまが私たちに命じていることなのです。
聖霊によって私たちのところに戻って来て、共にいてくださるイエスさまは、私たちを、神の愛の中で生きる者とし、互いに愛し合う者として新しく生かしてくださるのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。あなたは御国に戻った御子の代わりに、別の弁護者として聖霊を遣わし、私たちを慰め、励ましてくださいます。その愛に応え、互いに愛し合う者として共に成長できるよう教会の交わりを育ててください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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