Sola Gratia

羊飼いのたとえ

1「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 2門から入る者が羊飼いである。 3門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 4自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 5しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 6イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

聖書の中には、羊と羊飼いの話がたくさん出てきます。たとえ話もあれば実際の物語もあります。ユダヤ・パレスチナ地方に住む人々にとって、羊や羊飼いの生活というのは最も身近なものであり、たとえとしてもわかりやすいものだったからでしょう。先ほど交読した詩編23編は、最も有名なものです。この詩編の大事なところは、それが「一匹の」羊の救いを歌っているからです。この詩は「個人の」救いをうたう賛美歌です。

そして、イエスさまもこの比喩をよく用いました。「羊飼いのいない羊の群れ」という表現(マタイ9章36)や「失われた一匹の羊を捜す羊飼い」のたとえ(ルカ15章3-7)などにも示されています。

きょうの箇所、ヨハネ10章全体の主題は、11節と14節に二度出てくる《わたしは良い羊飼いである》ということです。きょうは、この言葉をめぐって御言葉を聞いていきたいと思います。

イエスさまは、こう語り始めます。《羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く》(1-4)。

パレスチナでは、一つの村の羊は共同の囲いに入れられている場合が多かったようです。この場合は、人の背丈ほどもある石垣で囲われた羊の檻で、門は一箇所しかありません。その共同の囲いの門番は、顔見知りの羊飼いたちだけに門を開きます。羊飼いは門から囲いに入り、自分の羊の名を呼んで、多くの羊の中から自分の羊だけを連れ出します。羊も自分の羊飼いの声を聞き分けて、その人だけについて行きます。ですから、《門を通らないで、ほかのところを乗りこえて来る者は、盗人であり、強盗である》(1)。

羊飼いは朝ごとに門から囲いに入って、自分の羊たちを牧草地に連れ出します。それに対して盗人や強盗は、夜ひそかにやって来て、羊の門からではなく、塀なり壁なりを乗り越えて囲いに侵入し、羊たちを奪うのです。

朝になると羊は羊飼いによって囲いから導き出されます。そして、夜になるとこの囲いへと導き入れられ、安全に守られます。羊たちの一日は羊飼いと共にあります。羊飼いなくして、羊は一日たりと生きていくことができません。このたとえを聞いた人たちは、羊が羊飼いの声について行くことが、どんなに大切なことか、よく知っています。羊飼いこそが羊を命へと導くのです。

《羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す》(3)。これが当時の習慣です。多くの羊の中から自分の羊だけをまとめて連れ出すために、羊飼いは「自分の羊たちをその名で呼び」ます。彼らは羊の一匹一匹に名前を付けて、羊と共に生活をしているのです。羊飼いにとって、そこにいるのは単なる「群れ」ではありません。名前が付いている個々の羊です。自分の羊たちをその名で呼んで囲いから連れ出した羊飼いは、「先頭に立って群れを導き」、命を養う牧草や水のあるところに連れて行きます。羊たちは彼の後に従って行きます。この光景は、《主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない》(口語訳)と始まるあの美しい詩編23編を思い起こさせます。

しかし、今日のたとえで重要なのは、《門から入る者が羊飼いである》(2)とあるとおり、その羊飼いは「門を通って入ってくる」ということです。しかしまた、イエスさまは《わたしは羊の門である》(7)とも言っています。ややこしそうに感じますが、実は話は単純です。なぜなら、私たちはすでに、イエスさまが私たちの罪の贖いのために十字架にかかってくださった、ということを知っているからです。イエスさまは《世の罪を取り除く神の小羊》(1章29)として屠られたということです。イエスさまはご自分がどこに向かっているかを事前に知っていて、このことを語っているのです。ですから、その後で《良い羊飼いは羊のために命を捨てる》(11)と言うのです。

そのように、イエス・キリストについて語られるとき、それは必ず「十字架につけられたキリスト」です。そのイエス・キリストが《わたしは門である》(7)と言うのですから、その門とはイエス・キリストの十字架に他なりません。羊飼いは門を通って羊のところに来るのです。羊は羊飼いを、門を通って来られた羊飼いとして見るのです。私たちは、イエス・キリストという御方を、十字架を通って来られた御方として見るのです。

なお、羊飼いが自分の羊を知っているように、イエス・キリストは私たちを知っています。名前を持った人間として、ここまで固有の人生を生きてきた人間として知っているのです。ということは、私たちの罪をも知っているということです。しかし、私たちはそれでも安心して羊飼いに付いて行けます。なぜなら、イエスさまは十字架を通って来られた御方であって、私たちの罪を贖ってくださった御方だからです。

そのように「門」は、羊飼いが通って来られた十字架の門ですから、それはまた羊たちにとっては救いの門でもあります。羊である私たちは、イエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いの門を通って救われるのです。《わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける》(9)と書かれているとおりです。

「出入りする」というのは、ユダヤ的な表現で、生活することを意味します。羊の門は、羊の生活と共にあるのです。その門あってこそ、豊かな牧草にありつき、命に溢れて健やかに生きるのです。十字架による神の赦しがあってこそ、私たちは真に羊飼いと共に生き、命へと導かれながら生きることができるのです。

イエスさまは《わたしは良い羊飼いである》(11)と言われます。この羊飼いは《羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため》(10)に来てくださいました。羊飼いなるイエスさまは、私たちを本当の意味で生かすことができます。なぜなら、羊飼いなるイエスさまは、門を通って来られた御方だからです。それゆえに、私たちに必要なことは羊飼いに付いていくことです。ほかの者にはついて行かず、羊飼いの声をよく聞いて、ついて行くことなのです。

しかし、近づいて来るのは、必ずしも良い羊飼いだけではありません。強盗もまた近づいて来るのです。ここで「盗人」「強盗」としてたとえられているのは、具体的にどんな人のことでしょうか。

イエスさまは《わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である》(8)と言っていますが、「前に来た者」とは、旧約聖書の預言者たちのことではありません。そうではなく、イエスさまが他の箇所で、《律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない》(マタイ23章13)と批判している人たちのことです。

この10章は、9章の続きとして語られています。9章の終わりで、ファリサイ派の人々とイエスさまの間に対立がありました。彼らは《我々も見えないということか》(9章40)とイエスさまに食って掛かりました。そこには、「自分たちこそはイスラエルの神の権威の下で働いているのだ」という思いがありました。この10章の言葉は、そのファリサイ派の人々に向かって語られているのです。

しかし、彼らはこのたとえの意味を理解することができませんでした。《イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことかわからなかった》(6)とあります。彼らにしてみれば、まさか自分たちのことを言われているとは、想像もつかなかったのでしょう。まさしく《見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになるためである》(ヨハネ9章39)という言葉のとおりです。

最後に、「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」というイエスさまの言葉を心に刻みたいと思います。《わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。・・・わたしは良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている》(11, 13)。

イエスさまは、この言葉のとおりに生き、そして死ぬことによって、羊飼いとしての使命をまっとうしてくださいました。その羊飼いに、私たちは生かされています。そしてその良い羊飼いの大きな腕の中で、私たち自身も、イエスさまを鏡として、牧師として、また信徒としても小さな羊飼いとして、続くようにと招かれているのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子を世の罪を取り除く神の小羊として、また羊のために命を捨てる良い羊飼いとして世に遣わしてくださったことに感謝します。豊かな命を受けられるよう、私たちを御言葉と聖霊によって養ってください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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