Sola Gratia

見えない者が見えるように

35 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。36 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」38 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」40 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。41 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

イエスさまは、生まれつき目の見えない人を見ると、ご自分の唾で泥を作り、それを彼の目に塗って、《シロアムの池に行って洗いなさい》(7)と言いました。彼が言われた通りにすると、目が見えるようになりましたが、この癒しを行なったのが安息日だったため、ユダヤ人の宗教的指導者だったファリサイ派の間で問題となりました。

癒された人はファリサイ派の人々に呼び出され、お前はイエスのことをどう思うのか、と厳しく尋問されます。ファリサイ派の人々は、安息日の律法を破っているイエスさまは罪人であり、神から来た者ではないと断言しますが、彼は、神のもとから来たのでなければ、生まれつき目が見えなかった自分を見えるようにできるはずがないと答えます。

ファリサイ派の人々はそれを聞いて怒り、《お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか》(34)と言って、彼を外に追い出します。これは、彼が尋問を受けていた場所から外に追い出されたことを意味するだけではありません。《ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである》(22)とあるように、彼が外に追い出されたのは、この決定がくだされていたためでした。

実は、この決定は、この福音書が書かれた紀元1世紀の終わり頃のユダヤにおいて起っていたことです。ユダヤ教によるキリスト教会に対する迫害の中で、キリスト信者を会堂から追い出すということが起っていたのです。ヨハネ福音書は、しばしば自分たちが今受けている迫害の状況をイエスさまの生涯の中に書き込んでいます。それによって、今迫害の中にあるキリスト信者たちを励まそうとしているのです。

《イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと・・・》(35)とあります。彼がシロアムの池から戻って来た時には、イエスさまはもうそこを立ち去っていて、彼はまだイエスさまを見たことがないのです。つまり彼はまだ本当の意味でイエスさまを見たことがなかったのです。その彼を、イエスさまの方から捜し出し、出会ってくださったのです。

そのようにして彼を捜し出したイエスさまが《あなたは人の子を信じるか》(35)と問い掛けると、彼は《主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが》(36)と答えます。つまり、イエスさまは彼の中から、「自分を救ってくださった方と出会いたい、その方を信じたい」という願いを引き出したのです。

そのように願い求めた彼にイエスさまは《あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ》(37)と答えます。イエスさまが彼を捜し出して、出会ってくださったので、彼もイエスさまと出会うことができたのです。彼は《主よ、信じます》(38)と言って、イエスさまのみ前にひざまずきました。

この人に救いが与えられたのは、イエスさまによって目が見えるようになった時ではありません。イエスさまが彼と出会い語り掛けてくださったことによって、彼はイエスさまを見ることができました。そして「主よ、信じます」と信仰を告白し、礼拝する者となりました。彼は、イエスさまとの真実の出会いがあって、救いが与えられたのです。

その彼にイエスさまはこう語られました。《わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者が見えるようになり、見える者が見ないようになる》(39)。イエスさまがこの世に来たのは裁くためである、と聞くと私たちは、「でも、《神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである》(3章17)とあるのでは?」と思います。しかし、その言葉に続いて、こう語っています。《御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている》(18-19)。つまり、御子を信じることによって、本来裁かれ、滅ぼされるべき罪人である私たちが救われるのです。《独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る》(3章16)のです。しかし御子を信じない者は既に裁かれている。世の光として来られた御子イエスさまを信じないことが既に裁きとなっているのです。裁くというのは、救われる者と滅びる者とをはっきり分ける、ということです。イエスさまがこの世に来たことによって、そういう裁きが起こるのです。《わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者が見えるようになり、見える者が見ないようになる》(39)。イエスさまがこの世に来たことによって、見えない者が見えるようになり、見える者が見えないようになる、という区別、違いが人々の間に生じるのです。

「見えない者が見えるようになる」、ということがまさにこの人において起りました。彼に起ったのは、生まれつき目が見えないという障碍が癒され、見えるようになった、ということだけではありませんでした。彼は、その救いを与えてくださった方であるイエスさまを見て、イエスさまと出会って、イエスさまを信じる者とされたのです。彼が心の奥底で本当に必要としていたことは、目が見える他の人と同じ生活を送れるようになることではなくて、救いイエス・キリストを見ること、その方と出会い、その方を信じ、その方と共に生きる者となることだったのです。「見えない者が見えるようになる」という救いは、イエス・キリストを見ることができなかった者が、見ることができるようになり、イエスさまと共に生きる者とされるということです。

しかしイエスさまが来たことによって同時に、「見える者は見えないようになる」ということも起ります。それが起っているのがファリサイ派の人々です。イエスさまは彼らに《見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る》(41)と宣告しました。ファリサイ派の人々は「自分たちは目が見える」と言っていたのです。その確信によって、彼らはイエスさまのことを、《わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ》(24)と言ったのだし、《あの方は神のもとから来られた》(33)と言ったあの癒された人を、《お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか》(34)と言って追い出したのです。そのようなファリサイ派のことをイエスさまは、「見える者は見ないようになる」と言ったのです。自分が「見える」と思っている者、つまり自分には罪がないから人を正しく裁くことができると思っている者こそ、目が塞がれ、見るべきものが見えていないのです。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう」というのは、自分は見るべきものが見えていない罪人だという自覚を持っているなら、その罪の赦しを神に願い求め、見えるようにしてくださいとイエスさまに願っていくようになる。そこに、イエスさまによる罪の赦しが与えられる、ということです。

私たちが、自分は見えない者、罪ある者であることを認めて、私たちを赦し、救ってくださるイエスさまにひざまずくなら、その時私たちは、《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》(3章16)という神の愛が自分に注がれていることが見えるようになるのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまは言葉と行いで神の無償の愛と赦しの恵みを世に示してくださいました。聖霊によって私たちの心を開き、イエスさまの導きのもとで世を歩む者としてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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