Sola Gratia

父・御子・聖霊の神

12言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。 13しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。 14その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 15父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

《言っておきたいことは、まだたくさんある》(12)とイエスさまは言います。洗礼者ヨハネの時から一緒に生き、一緒に歩き、その間に教えたことでは、足りないのか。「まだたくさんある」とは、イエスさまは教えるべきことは教えましたが、弟子たちが教えから真理にたどり着けていないと捉えるべきです。

そして、いま教えないのは、《今、あなたがたには理解できない》(12)からだと言います。イエスさまは、自分たちの知識は余りに乏しい、もっと知りたいという弟子たちの欲求を、善いものとして肯定した上で押しとどめます。不足している知識を与えても、今の彼らには理解できない、と言うのです。今は理解できないのであれば、成熟するのを待てば良いのか。そうではありません。彼らが内的に発展するのでなく、聖霊が彼らに与えられるのを待つほかないのです。

この「今」というのは、弟子たちが自分の理解と力とで歩まなければならない「今」の意味です。この弟子たちの現状が、「真理の霊」が来て、すべての真理に導き入れてくださる将来の時(次節)と対照されています。

では、《真理の霊》(13)がくだれば、足りなかった教えが一挙に満たされ、あらゆる真理が瞬時に分かるのでしょうか。そうとも言えますが、その理解では不十分です。「真理の霊」の働きは、出来合いの知識をつぎ込むだけのことではなく、その知識を受け入れる用意をさせること、またその言葉を心の内に留めさせることでもあるのです。聖霊の働きなしでは、福音は人間の観念の領域にとどまります。聖霊が与えられてこそ、神との交わりは実現するのです。

御言葉を受け入れる用意をするのは人間の側の努力ではありません。《求めなさい。そうすれば、与えられる》(マタイ7章7)という約束の言葉は真実ですが、求めれば何でも得られるというものではありません。天の父は求める前に必要を知っておられ、必要なものを与えてくださいます。それでは祈り求めることは余計なことでしょうか。そうではなく、頂くものは祈り求めなければならない、というのがこの教えの要点の一つです。

もう一つの点はルカ福音書の《求めなさい。そうすれば、与えられる》(11章9)の教えの結論にあります。《このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる》(11章13)と言われます。聖霊を求めることが根幹となる時に、すべての求めとすべての恵みが有効になるのです。

聖霊は《わたしの言葉があなたがたの内にいつもある》(ヨハネ15章7節)ようにしてくださいます。しかし、御言葉を与えられた時、聞いた当初は感銘を受けても、いつしか消え去ることが多いものです。御言葉に聖霊が結び付いてこそ、御言葉が内に留まるものとなるのは、イエスさまの御旨です。その結び付きなしに、御言葉または聖霊が単独に働くことはない、と言えば言い過ぎですが、本来の秩序はこの結び付きにあります。

さて、13節です。《真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる》。聖霊が与えられるという約束が、イエスさまの去って行かれる時の約束の核心です。聖霊が「真理の霊」と呼ばれる意味は、ここで最も強く掲げられています。すなわち、聖霊がなにかの賜物、あるいは効果を与えるというのではなく、聖霊御自身を与え、真理そのものをもたらすのです。

その時、与えられた聖霊は「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせ」てくださいます。「言うべきことを多く残したけれども、聖霊が来る時には、未到達の区域はなくなる。あなたがたはすべての真理を知るに至る」、と約束されています。すべての真理を知るとは、単に知識を得るのではなく、霊的に充実することです。

続いて、《その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語る》(13)とあります。聖霊の与えるものが聞いて語るもの、「言葉」が中心であるという教えです。聖霊の与えるものは、力・潔め・悟り・徳であるという理解は間違いではありませんが、聖霊の単独の働きではなく、御言葉と結び付いての働きが特に重要だということを知らなければなりません。

聖霊は自分自身の言葉を聞かせるのでなく、彼方に行ったイエスさまの言葉を受けてそれを聞かせるのです。《その方は・・・(わたしから)聞いたことを語る》、また《わたしのものを受けて、あなたがたに告げる》(14)とある通りです。なお、13節には《これから起こることをあなたがたに告げる》とあります。聖霊を受けた者には未来の出来事の啓示が与えられる、というよりは、来たるべき者すなわちキリストを伝達するのは聖霊であることを告げている、と解釈すべきです。

14節に進むと、《その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである》とあります。「わたしに栄光を与える」とは、御子として本来持っておられたが、隠されていた栄光が現われようとしている、つまり、イエスさまが救い主・メシアとしての任務をまっとうして、イエスさまと一つである神の栄光を顕したことです。それは、聖霊によって救いの人間に対する伝達が完成することです。そのことは15節でさらに明らかにされます。

ところで、父と子と御霊の働きがそれぞれ別であるという理解がかなり普及しています。別々に捉えた方がよく分かるという利点はあるのですが、この段落でイエスさまは、父・子・聖霊を別々の働きをするものとして理解するのでなく、一貫する業を行うものとして捉えさせようとしています。その教えをまとめたのが15節です。《父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである》

ここに、三つの段階で伝達が行なわれることが示されています。第一は、御父から御子へです。御父のものはすべて御子に伝達されました。フィリポに対して14章9節に《わたしを見た者は、父を見たのだ》と言われた所以です。3章35節では《御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた》と教えます。5章26節では《父は、御自分の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださった》と言い、《裁きを行う権能を子にお与えになった》と続けます。10章30節では《わたしと父とは一つである》と言われました。

子が父に従属するという面は確かにあります。ですから《父はわたしよりも偉大な方だからである》(14章28)と言い、《わたしをお遣わしになった父》(14章24)と言います。しかし、父・子・聖霊という順位は、救いの秩序を示すものであり、劣った者によって救いがなされ、神による救いは、より劣った者からしか受けられないという意味ではありません。父なる神に救いがあります。その救いは遥か高いところに留まっているものではなく、御子まで来ているのです。

父が直接に人間に救いを伝達せずに、御子に委託したのは、人間の救いは、人の子となった御子に移された祝福が、人の子となった御子からその兄弟である人々に分かち与えられるという手続きを取らなければならないからです。ここにこそ救いの確かさと現実性があるのです。

第二に、御子から聖霊への伝達が行なわれます。もはや御子から直接に人々へ伝達されることはありません。御子はこの世に降って、救いの業を果たし終えて、地上から間もなく去って行きます。御子の去った後、人々は御子が成し遂げた救いを、敬虔な思いで記念することはできても、御子キリストにある救いの現実性は、記念に置き換えることはできません。聖霊が御子から受け、その聖霊を御子が世に遣わし、遣わされた聖霊はそれをキリストを信じる人々に伝え、こうして父から発する救いは現実に人間に達するのです。その人間に達する段階、これが聖霊によってなされる第三段階です。

聖霊による伝達、これは14節でも15節でも「告げる」という言葉が使われていますが、使信を伝える、説教するという意味です。「告げる」ことは使徒たちの職務であり、聖霊はそれを助け、力あるものにします。最終的に私たちに伝わる福音は使徒伝来の説教です。そして、そのこと自体が聖霊の働きなのです。

本日の教えは、父から子へ、子から聖霊へと救いの業が移行したということでした。キリストから遣わされた使徒の宣教の業は、聖霊の業の一環として行なわれ、聖霊の業として実を結ぶのです。この聖霊の助けによって、私たちは目に見える証拠なしに、主イエスによる救いを信じて生きることができるのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。きょう私たちを「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」の中に招いてくださったことを感謝いたします。この祝福の道をしっかり歩み通すことができますよう、聖霊を送って、私たちを支えてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


タグ一覧

説教検索

キーワード


© Sola Gratia. 高野牧師のホームページ.

powered by freo.