Sola Gratia

心を騒がせるな。おびえるな

23イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。

25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。 26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。 27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。 28『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。 29事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。

《わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る》(23)、しかし、《わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない》(24)。これは、直前22節の《主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか》というイスカリオテでないユダの問いに対するイエスさまの答えです。人がイエスさまを信じるか信じないかは、人の側の判断によるのでなく、神の側の無条件の恵みの選びによるという答えです。

「わたしの言葉」とは、先週の礼拝で聴いた《あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい》(13章34)との御言葉に示されています。

イエスさまを愛する者は、父なる神を愛する者です。そして、イエスさまと父なる神もその人を愛します。神との間に愛の交わりが回復されるのです。そして、神との間の愛が回復された人は、人と人との間の愛の交わりも回復していきます。なぜなら、イエスさまを愛し神を愛するという信仰は、聖霊なる神の働きによって与えられるものであり、聖霊なる神は必ず私たちを隣り人を愛する営みへと導くからです。神と人への愛の回復によって、私たちの信仰が、自分の決断ではなく聖霊なる神によって与えられたものであることが明らかになります。聖霊なる神が与えてくださらなければ、私たちには愛がありません。

聖霊なる神に与えられた信仰によって、私たちは神とイエスさまに愛されていることを知り、同時に、神とイエスさまを愛さずにはいられなくなります。愛は人格的な交わりだからです。そして、その愛は、神がこの世界とそこに生きる一人一人を愛する豊かな愛ですから、必ず私たちの隣り人に向かってあふれて、注がれていくものなのです。そして、その愛を確かに証しする存在として、キリストの教会はあるのです。

ところで、モーセは出エジプトの旅の途中に、民の不満・不信仰に直面し、《わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望している》(民数記11章29)と言いました。神が聖霊を注いでくださって、神の民がすべて預言者となる。神の民のすべての者が神の御心を知り、神の言葉を語り、神の御業に仕える。この願いは、モーセが生きている内にはかなえられませんでした。しかし、イエスさまが来て、私たちの一切の罪を赦すために十字架にかかり、三日目に復活し、弟子たちに聖霊を与えたことで、このモーセの願いは実現したのです。実に、キリストの教会という新しい神の民は、すべての者に聖霊が注がれ、預言者の群れとされた民なのです。

「私たちは皆、預言者だ」と聞くと、誰も「自分などは、とても預言者と名乗れるような者ではない」と言うでしょう。しかし、「イエスは主なり」と告白する者は皆、聖霊を注がれており、聖霊を注がれた者は皆、預言者として立てられるのです。

神の救いの御業は、いつも私たちの認識に先立っています。神の救いの御業に私たちが気づく前から、すでに私たちは神の救いの御業に与っているのです。私たちは、すでに与えられた神の救いの御業を見て、味わって、「ああ、こういうことだったのか」と後から一つ一つ分かっていくのです。

さて、イエスさまは、受難の前に、御自身が十字架にかかること、復活すること、そして聖霊が与えられることを弟子たちに告げました。私たちに聖霊が注がれているという恵みの現実は、イエスさまの約束が果たされたことを裏付けています。

《わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した》(25)とあります。「これらのこと」とは、イエスさまがこれまで語ってきたことすべてを指しています。イエスさまが神と等しい方であること、イエスさまは天から降って人間となったこと、私たちに代わって十字架にかかること、三日目によみがえること、弟子たちに聖霊が注がれること、互いに愛し合うべきこと、等々です。

そして、《しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる》(26)とあります。福音書を読むと、イエスさまと弟子たちの会話はいつもすれ違い、弟子たちはイエスさまの言葉をまったく理解できていません。そのような弟子たちが、どうして福音書にイエスさまの真意を記すことができたのでしょうか。この不思議を解く鍵が、聖霊なる神です。

弟子たちは、イエスさまが語ったこと、その意味を、語られた時点では理解できていませんでした。しかし、聖霊が注がれた後、この聖霊なる神が、イエスさまが語ったこと、行ったことを弟子たちに思い起こさせ、その意味を教えたのです。その働きによって福音書ができたのです。歴史的には、この福音書が記されたのは弟子の活動時期より後のことです。ヨハネによる福音書は、イエスさまが復活してから60年くらい経ってからと考えられています。福音書が記される以前は、十二使徒を初めとしたイエスさまの弟子たちが、イエスさまの行ったこと、語ったことを宣べ伝えていました。それらを語り、聞くことで、主の日の礼拝が守られていたのです。そして、語られていたことを元に、福音書は成立したのです。

そのようにこの聖書という書物は、その成立の時から聖霊なる神の導きの下にあったわけです。それは、現在でも同じです。聖書を新しく読み解くこの説教も、聖霊なる神の導きによって、皆さんに伝わるのです。

この聖霊の働きの中で平和が与えられることがこう約束されています。《わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな》(27)。イエスさまはここで、「心を騒がせるな。おびえるな」と言っています。これは、14章1節で言われた《心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい》と同じことです。神を信じ、イエスさまを信じること。それは、聖霊なる神が働き、私たちに与えられます。そして、父なる神を信頼し、イエスさまを信頼するなら、必ず私たちに平和が与えられます。これがイエスさまの約束です。

この平和は、イエスさまの支配を信じるがゆえに与えられるものです。私たちは病気になります。老いの問題は誰も避けることはできません。苦しみの絶えない日々に、人はうろたえます。しかし、主の平和とは、そのような現実のただ中にあって、それでも私たちを包む平和なのです。主が共にいて、私たちの一足一足を守ってくださる。この確信こそが、私たちの平和です。神の愛が、イエスさまの御手が、私たちを捉えて離さない。このイエスさまの御手にしっかり捉えられている恵みを確かなものとして享受する。イエスさまに愛されていることを実感する。これらはすべて、聖霊なる神の導きによって、私たちに起きることです。そして、この時、私たちに平和が与えられるのです。

聖書が「平和があれ」「思いわずらうな」と告げる時、旧約以来いつもただ一つのことが根拠として示されます。それは、「わたしが共にいる」ということです。《かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる》(20)とあるとおりです。イエスさまが私たちの内にあり、私たちがイエスさまの内にある。これほど近しく、イエスさまは私たちと共にいてくださる。これが平和です。イエスさまの臨在を胸に刻むとき、私たちに必ず平和が与えられるのです。

私たちはイエスさまの守りの御手よりも、自分の力や才覚といった、まことに頼りにならないものをなおも頼りにしてしまって、平和が与えられないと嘆いているのではないでしょうか。ですが、イエスさまは「わたしの平和を与える」、とはっきり約束してくださったのです。このイエスさまの約束を、私たちは聖霊なる神の導きの中で信じ、ありのままの自分を主イエスさまの御手に委ねましょう。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子は御業を成し遂げて御許に帰るとき、ご自分に変わる助け手として聖霊を与えると約束してくさいました。私たちが信仰者として喜びをもって歩みを進めることができますよう、聖霊を送ってください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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