31さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。 32神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。 33子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。 34あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 35互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
今日の福音書の冒頭は、最後の晩餐の部屋からユダが出て行った場面です。その直前、イエスさまがユダにパン切れを渡して、《「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われ》
(13章27)ました。ユダがしようとしていたこと、それはイエスさまを裏切ってユダヤ人たちに引き渡すことでした。
ユダには「この御方は私が裏切ろうとしていることを知っている」とはっきり分かりました。しかし、他の弟子たちには何のことか分かりません。ある者は「過越の祭りに必要な物を買いなさい」と言ったのだと思い、またある者は「貧しい人に何か施すように」と言ったのだと思いました。本当のことは、ただユダとイエスさまだけが知っており、そして、ユダは出て行きました。
このとき、イエスさまは《今や、人の子は栄光を受けた》
(31)と語り始めます。この31-32節は整った五行詩の形になっています。これは「人の子」讃歌と呼ばれ、冒頭のヨハネ1章1-18の「ロゴス讃歌」に対応していると言われます。
「人の子は栄光を受けた」と過去形で書いてありますが、これは「やがて起こることが確実である場合の預言」として用いられるギリシア語の特殊な文法です。
しかし、信頼していた弟子に裏切られたのですから、「今や、人の子は栄光を失った」のではないでしょうか。ユダが自分を売り渡し、まもなく自分が捕らえられ、鞭打たれ、十字架にかけられることが、イエスさまには分かっていました。栄光とは対極の方向です。
にもかかわらず、イエスさまは「今や、人の子は栄光を受けた」、次いで《神も人の子によって栄光をお受けになった》
(31)と言うのです。神の遣わした独り子が裏切られることは、神御自身も裏切られることです。御子が人間によって十字架につけられ殺されることは、父なる神御自身が人間によって侮辱を受けることです。ユダが出て行って、今やそうなることが決定的になりました。しかし、イエスさまは「神も人の子によって栄光をお受けになった」と言ったのです。
では、いったい栄光とは何なのでしょうか。いままで読んできた箇所から、少なくとも一つのことは明らかです。イエスさまが「栄光」と呼んでいるものは、人間から裏切りを受けようと、侮辱を受けようと、揺るがない真実の栄光であるということです。
イエスさまが言う「栄光」は、何を受けたかではなくて何を与えたかに関わっていると言えます。与えたのは愛であり命です。イエスさまの命は愛して与えるための命だったのです。イエスさまは後にこう言っています。《友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない》
(15章13)。その愛がまさに実現するのが十字架にかけられる時なのです。それは愛がまっとうされる時であり、「栄光」の時なのです。
栄光の指すものは父なる神においても同じです。神は独り子をこの世に遣わされました。それは神がこの世を愛しているからです。その愛は、人間によって踏みにじられましたが、神は栄光を受けました。神の愛の計画が御子においてまっとうされたからです。神の愛の業がまっとうされることも、御子によって御父が栄光を受けることも、人間はいかなる仕方においても妨げることはできませんでした。御子によって神は栄光を受けたのです。
そして、そのように十字架へと向かうイエスさまがこう言いました。《あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい》
(34)。
隣人を愛することは、ユダヤ人に古くから伝えられてきた神の掟です。しかし、イエスさまは弟子たちに「新しい掟」を与えると言いました。その新しさは、神が御子を通して実現してくださった愛の業によります。これはヨハネ福音書全体の主題であると言っても良いでしょう。
ですから、イエスさまはもはや《自分自身を愛するように隣人を愛しなさい》
(レビ記19章18)とは言いません。「わたしがあなたがたを愛したように」と言うのです。イエスさまが弟子たちを愛したような愛とは、十字架の愛です。命を捨てる愛です。ただし、この御言葉には留意すべき点があります。これが「わたしが命を捨てたように、互いに命を捨てなさい」という意味ではないということです。原文では、「わたしがあなたがたを愛したように」とは一回限り決定的に起こったこととして語られています。対して、「互いに愛し合いなさい」は継続的なこととして語られているのです。
イエスさまは私たちの救いのために命を捨て、神の愛を体現しました。これは一回限りの決定的な出来事として起こりました。そして、このようにあなたがたも愛しなさいとイエスさまは言います。しかし、私たちは誰か他の人の罪の贖いとして自分の命を差し出すことはできません。
私たちは一回限りの十字架の愛を、私たちの日常生活の上に置き換えなくてはなりません。私たちは命の捨て方ではなくて、命の活かし方、日々繰り返される命の与え方を見出さねばならないのです。
また、イエスさまは「互いに愛し合いなさい」と言いますが、自分一人では「互いに」は成り立ちません。誰かが他にいるということです。
その「誰か」は何のためにそこに存在しているのでしょう。私たちは、他者を何かを求める対象としてしか見ていないものです。家族であれ、知人であれ、あるいは他人であれ、私たちは誰かがそこにいるならば、自分に与えてくれる人、自分を愛してくれる人、自分を守ってくれる人、自分を幸せにしてくれる人として、その人を見るものです。そして、その欲求が満たされないとき、理不尽にも不満を持ち、争うのです。これでは「互いに愛し合う」ということは実現しません。
私たちが何かを要求するためではなく、私たちが愛することができるようにと、神は「誰か」を私たちと共に置かれたのです。私たちが命を活かすことができるようにと、神はその「誰か」を与えてくださったのです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」というイエスさまの言葉が実現するために、「互い」が存在しているのです。
この「互いに」が第一に意味しているのは、親子関係でもなければ、友人関係でもなければ、ちょっとした顔見知りでもありません。それは教会です。イエスさまは《互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる》
(35)と言っています。
牧師と信徒との関係においても、信徒同士の関係においても、教会の「お互い」をただ要求の対象としか見ていないならば、そこからは欲求不満と怒りと争いしか生まれてきません。相手から何を受けられるかではなくて、相手に何を与えられるかを考えることが、「互いに愛し合う」ことにつながるのです。
弟子たちはイエスさまによって集められました。そのようにして、彼らはイエスさまから互いのために命を活かす相手として互いを与えられました。互いを愛する機会、仕える機会を与えられたのです。時には赦しを与えなくてはならないかもしれません。そのように赦す機会を与えられたのです。
イエスさまはあえて互いに異なる人々を集めました。そこには漁師もいれば徴税人もいれば熱心党出身者もいました。お互い個性が違えば違うほど、与える機会、仕える機会、また赦す機会が多くなります。そのようにして命を活かす機会を重ねて、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という言葉が目に見える形で実現されてきたのです。
私たちは、集められていることの意味と自分の命の用い方を本気で考え、祈り求めなくてはなりません。最後に、再度イエスさまの言葉を聞きましょう。《わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい》
(34)。そして、《互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる》
(35)。
祈りましょう。天の父なる神さま。この世における御子の生と死をとおして、あなたは人に対する真実の愛の御心を現わしてくださいました。あなただけが私たちの生きる力、喜びの基です。御言葉によって私たちの歩みを守り、導いてください。私たちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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