Sola Gratia

わたしと父とは一つである

22そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。 23イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。 24すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」 25イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。 26しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。 27わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 28わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 29わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。 30わたしと父とは一つである。」

十字架の死と復活によってイエスさまが神から世に遣わされた救い主であることに目が開かれると、在世中のイエスさまの言動の意味が明らかになります。

きょうの聖書は、《そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった》(22節)と始まります。神殿奉献記念祭とは、ヘブライ語で「ハヌカ」(聖別、奉献の意)と呼ばれる祭りを指しています。この祭りは、エルサレムが異教徒によって支配され、神殿にギリシアの神ゼウスの像が置かれ、ヤハウェ礼拝は禁じられていた、そのエルサレムをユダヤ人たちが取り戻し、汚されていた神殿を清めてもう一度主なる神に奉献したという、紀元前164年の出来事を記念して行なわれる祭りです。私たちの暦では冬、11月から12月頃になります。この戦いはマカベア戦争と呼ばれ、旧約聖書続編のマカバイ記一4章36-59に記されています。それ以後ユダヤ教では、これを記念する「ハヌカ」が年ごとに祝われるようになりました。この祭りは同時に、ソロモンの神殿と第二神殿の奉献を回顧する祭りとして、仮庵祭にならって八日間燈火をつけて祝われました(マカバイ記二1章18以下)。

なお、ハヌカ祭は、口語訳・新改訳・岩波版では「宮清めの祭り」と訳していますが、「宮清め」という用語は、イエスさまの「宮清め」にも用いられますので、新共同訳では「神殿奉献記念祭」と訳しています。

そのとき、《イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた》(23節)とあります。「ソロモンの回廊」は、神殿の前庭を取り囲む柱廊の東側の部分になります。ここには異邦人も近づくことができたので、説教などがよく行われました。イエスさまと使徒たちもここで活動したと伝えられています(使徒言行録3章11節、5章12節を参照)。

《すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。」》(24-25節)。

地上のイエスさまが自分をメシアであると公言したことはありません。あえて書かれたであろう「わたしは言ったが」という文からは、ヨハネ教会(使徒ヨハネの教えを受け継ぐ教会)がユダヤ人に向かって、はっきりと「イエスこそメシア(キリスト)である」と語りかけてきた歴史が読み取れます。ヨハネ教会は絶えず証しし続けて来ましたが、ユダヤ人たちはそれを信じませんでした。

また、ヨハネ教会は、イエスさまが行なった奇跡の業を示して、その業がイエスさまが父から遣わされた方であることを示していると主張してきました。「父の名によって行う業」とは、イエスさまが父から遣わされた方として行っている業を指しています。ヨハネ福音書は、イエスさまの奇跡の業を「しるし」と呼んできましたが、それはイエスさまの業が「父の名によって」なされたこと、すなわちイエスさまが父から遣わされた者であることを指し示す「しるし」であるという主張です。おそらくヨハネ教会の人々自身がイエスさまの名によって多くの力ある業(奇跡的な癒しなどの働き)を行って、その主張を裏付けてきたと考えられます。

《「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」》(26-27節)。

ところが、ユダヤ人たちはそのヨハネ教会の証言を信じませんでした。その理由を著者ヨハネは、羊飼いと羊の比喩を用いて語ります。すなわち、ヨハネ教会の証言を信じない(聞き入れない)のは、彼らはもともと真の羊飼いである復活のイエスさまに所属する羊ではないからだと断言します。

この論理によると、ユダヤ人たちがイエスさまを拒否したから真の羊飼いであるイエスさまに属する羊ではなくなったのではなく、もともとイエスさまに属する羊ではないからイエスさまを拒否したということになります。今ヨハネ教会のユダヤ人がイエスさまを信じているのは、もともと彼らはイエスさまに属する羊だったから、自分たちの羊飼いであるイエスさまが来たとき、その声を聞き分けてイエスさまに従うことになったのです。イエスさまに従ったから、イエスさまに属する羊になったのではありません。

これは一種の予定説です。同じイスラエルの宗教的伝統を受け継ぎながら、同じ囲いの中にいながら、イエスさまが来る以前に、すでにイエスさまという羊飼いのものである羊たちとそうでない羊たちに二分されていたのです。

彼らがそう考えるのは、今自分たちがイエスさまの声を聞き分けて従っているのは、自分たちの理解や意志でイエスさまを自分の羊飼いとして選んだからではなく、神がその選びの恵みによって自分たちをイエスさまのものと予め定めていたからであって、自分たちの側に何の根拠もないことを言い表すためです。つまり、私たちの救いは神の人間に対する無条件の愛・恵みに基づくのです。

イエスさまは《「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」》(28節)と言います。良い羊飼いが羊たちを牧草地と水辺に導いて豊かに命を与えるように、イエスさまは御自分に属する者たちに永遠の命を与えます。また、良い羊飼いに導かれる羊たちが飢えず滅びないように、復活のイエスさまから命を受ける者は「決して滅びない」のです。

さらに、良い羊飼いは自分の命をかけても野獣から羊を護りますから、野獣は羊を奪うことができません。そのように、イエスさまに属する者を復活のイエスさまの手から奪うことができる者は誰もありません。イエスさまは復活して、すべての霊的権威や支配にまさる名を与えられた方です。その復活のイエスさまから奪い取る力をもつ者はありません。

ヨハネ福音書では、永遠の命を与えるのは「わたし」、すなわち復活のイエスさまです。この28節の文では「わたし」が強調されています。パウロや他の福音書では、神がイエス・キリストを通して永遠の命を与えます。また、復活についても、パウロや他の福音書ではあくまで復活させるのは神ですが、ヨハネ福音書では復活のイエスさまが死者を復活させます(6章39節、40節参照)。ヨハネ福音書では、復活のイエスさまと父が一つに重なっています。

《「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである」》。(29-30節)

イエスさまに属する者を復活のイエスさまの手から奪うことができる者は誰もないことを保証する事実として、彼らをイエスさまに与えてくださった父がすべてのものより偉大であることがあげられます。「すべてのものより偉大な父の手から奪うことができる者は誰もない」のですから、イエスの手から奪うことができる者はないのです。

「偉大である」の主語は、ほとんどの日本語訳で「わたしの父がわたしに与えてくださったもの」になっていますが、「わたしに(彼らを)与えてくださった父」を主語と読む方が、文脈から見て自然です。新改訳と聖書協会共同訳はそのように訳しています。

前段でお話ししたように、ヨハネ福音書では復活のイエスさまと父の働きが一つに重なっています。そのことが「わたしと父は一つである」(30節)という一文で宣言されます。ヨハネ福音書では、「キリストにあって」神がなされる働きが、復活のイエスさまの働きとして受け取られ、体験され、告白されています。この「わたしと父とは一つである」という宣言は、復活のイエスさまと父の働きが重なって一つになって体験されていることを述べているのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子はご自分が誰であるかを、貧しい人・弱い人の友となることで人々に示されました。私たちが聖書の証言を通して、イエスさまを神の御子・救い主と信じて新しい命を歩むことができるよう、守り、導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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