28この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。 29そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。 30イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
31その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。 32そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。 33イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。 34しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。 35それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。 36これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。 37また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。
きょうの聖書箇所は、《この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した》
(28)と始まります。これは「聖書が成就するために(必要な)すべてのことが成し遂げられたことを知って」とも訳せます(岩波版)。新共同訳は、次に語られるイエスさまが酸いぶどう酒を受けたことが、詩編69章22, 22編16, 63編2などの成就であるとして訳しています。この解釈は、イエスさまの身に起こったことが最後の最後まで聖書の正確な成就であったことを強調するものです。
「酸いぶどう酒」とは、英気を養うためにローマ兵が用いた水と酢と卵を混ぜ合わせた飲物とされていますが、ヨハネ福音書にはそれが器に満たしてそばに置いてあったと記されています。十字架刑の執行時に囚人に与えるためにローマ側が用意していたとも考えられます。
《この酸いぶどう酒を受けると、イエスは「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた》
(30)。ヨハネ福音書は「この酸いぶどう酒を受けると」と明記していますが、共観福音書では大声を出して息を引き取られたと語るのみで、この酸いぶどう酒を受けたことには言及されず、むしろ受けなかった印象を与えます。
息を引き取る直前のイエスさまの言葉は、四福音書で違っています。ヨハネ福音書は「成し遂げられた」と叫んで、息を引き取られたと伝えています。この叫びは、《イエスはすでにすべてが成し遂げられたことを知って》
(28)、最後の最後に発せられた言葉です。イエスさまは、十字架の上で自分がなすべき業をすべて成し遂げたことを確認したのです。
《その日は準備の日であり、その時の安息日は大祭の日であったので、安息日にからだを十字架上に残さないため、ユダヤ人たちはピラトに彼らの脚を砕いて、からだを取り除くように求めた》
(31)。
イエスさまが十字架上に死なれたのは「準備の日」でした。「準備の日」とは、安息日とか大祭の前日で、祭儀のための準備をする日のことです。ここでの「大祭の日」は過越祭の日を指します。過越祭の日付は「ニサンの月」(ユダヤの暦で大麦の収穫の始まる頃)の14日と決まっていますから、この年は、その大祭の日が安息日と重なっていたことになります。イエスさまが十字架につけられたのは、ヨハネ福音書では過越の小羊がほふられる「過越の準備の日」(18章18参照)であり、それが金曜日の午後で、その日没から土曜日の安息日が始まることになります。
律法(申命記21章22-23)は、木にかけられた者の死体はその日のうちに(すなわち日没までに)埋めるように命じています。この規定は安息日とか祭日とは関係ありませんが、とくにこの場合は日没から始まる翌日が安息日であり、かつ大祭であったので、聖なる土地を死体で汚さないために、この律法規定を守ることが重視されました。それでユダヤ人たちはピラトに「(十字架から)からだを取り除くように」求めます。
そのさい、彼らは「彼らの脚を砕いて」からだを取り下ろすように求めています。これは、受刑者が仮死状態や気絶から息を吹き返して逃走することを防ぐために、脚の骨を砕いて歩けなくすることが、十字架刑の習慣であったからです。祭司長たちは三人の脚を砕いて早急に死体を取り下ろすように、ピラトに願い出ます。ピラトは、ユダヤ人たちとの不要の摩擦を避けるためか、これを認めます。
《そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との脚を砕いた。ところが、イエスのところに来てみると、すでに死んでおられるのを見て、その脚を砕くことはしなかった》
(32-33)。
他の二人にはこのように兵士たちが脚を砕きましたが、イエスさまはすでに息絶えていましたので、脚の骨を砕くことはしませんでした。共観福音書には、二人の受刑者の脚を砕く記事はありません。
脚を砕く代わりに、受刑者の死を確実にするため、《兵士の一人がイエスの脇腹を槍で刺し》
(34)ます。イエスさまは、ヨハネ福音書では正午以後に十字架につけられ、夕方の前に死なれたので、十字架の上で苦しまれたのは三時間か四時間程度になります。これは、十字架刑としては、例外的に短い時間です。ように、ピラトが不審に思うほど短時間で死なれたので(マルコ15章44-45)、死を確実にするために、槍で刺すような処置がとられたのでしょう。この記事も共観福音書にはありません。
槍で脇腹を刺した結果血が流れ出たことは自然に理解できますが、水が流れ出たことはやや異様です。この「血と水」の組み合わせは、ヨハネの第一の手紙5章6-8で強調されており、「水と血」は、洗礼と聖餐を象徴し、救済の手段であるので、十字架の死が救いをもたらす出来事であることを強調しています。
《それを目撃した者が証をしてきた。彼の証しは真実であり、その者は自分が真実を語っていることを知っている。それは、あなたたちもまた信じるようになるためである》
(35)。
「イエスが愛された弟子」がこの福音書の情報源とされているので(21章24)、この目撃者もこの弟子と見られます。他の弟子たちは十字架の場所にいませんでしたが、この弟子だけはそこにいたとされています(19章25-26)。
十字架上のイエスの脇腹から血と水が流れ出たことを書き記した著者は、この記事が信用できるものであることを強調するために、その場に居合わせてその事実を目撃した者が、そのことを繰り返し証言し続けてきたことを付け加えます。その目撃者は今までずっとその証言を続けてきており、わたしたち(この福音書を生み出したヨハネ共同体)はその証言を聴いてきて、その証言が真実であることを知っているとします(21章24)。ここではさらに、「その者」(その目撃者)自身が、「真実を語っていることを知っている」とされ、その目撃者の信頼性が保証されます。
このように、この記事が目撃者の真実な証言によるものであることを強調したのは、「あなたたちもまた信じるようになるため」であると、その意図が説明されます。この「あなたたち」は、ヨハネ共同体でイエスのことを聴いている人たち、この福音書の読者たちを指していると見られます。このような人たちがイエスの十字架の死の意義を理解して受け入れるようになるために、著者はこの目撃者の証言の真実性を特記して強調します。
《これらのことが起こったのは、「彼の骨は砕かれることがないであろう」とある聖書が成就するためであった。また、聖書は別の所で、「彼らは自分たちが刺した者を見つめることになる」と言っている》
(36-37)
「彼の骨は砕かれることがないであろう」は、詩編34編21の引用です。なお、出エジプト記12章46に、過越の小羊について、「その骨は折られないであろう」(直訳)とあります。ヨハネは、過越の羊が屠られる時刻に十字架につけられたイエスさまこそ、過越祭の成就であるとしているので、過越の羊の骨についての律法が成就したとしていることになります。
「聖書は別の所で」というのは、ゼカリヤ12章10に、《彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ》
とあるのを指しています。イエスさまの遺体が槍で刺されたことが、この預言の成就であるとして引用されています。
祈りましょう。天の父なる神さま。きょう私たちは御子の十字架の死で、すべてが終わったこと、しかしそこからのみ私たちが新しい命に生きる道が始まることを示されました。あなたが備えてくださった道を歩めますよう導いてください。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン
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