44既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 45太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。 46イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。 47百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。 48見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。 49イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。
イエスさまの十字架の場面について、ルカはマタイ、マルコとはかなり違った語り方をしています。マタイとマルコでは、イエスさまが十字架の上で最後に語ったのは、《エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ》
(マルコ15章34a)という言葉です。これは、《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》
(マルコ15章34b)という意味です。しかしルカでは、イエスさまの最後の言葉は、《父よ、わたしの霊を御手にゆだねます》
(46)です。両者の印象は大きく異なります。
マタイ、マルコは、罪のゆえに神に見捨てられて死ぬ罪人の苦しみと絶望を、イエスさまがご自分のものとして体験して死なれたことを語っています。これはまさに私たちのためでした。本来、私たちこそ自分の罪のゆえに神に見捨てられ、絶望の内に死ぬしかない者なのです。私たちのその絶望を、イエスさまが背負い、引き受けてくださいました。ここに私たち罪人のための救いがあります。それゆえに、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という最後の言葉に、私たちはイエスさまによる救いの恵みを聞き取ることができるのです。
一方、ルカは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という言葉を記しています。父なる神を信頼し、そのみ手に自分の霊を安心して委ねるイエスさまの意思が感じられる言葉です。神に向かい合うこの姿勢は、わたしたちが模範とすべきものですが、とうてい到達できない境地でもあります。では、ルカが描くイエスさまの死は、罪と弱さの中を生きる私たちの慰めにはならないのでしょうか。私たちは、ここで再度ルカが描くイエスさまの姿を聴いていきましょう。
まず、ルカはこう記しています。《既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた》
(44-45)。イエスさまが十字架につけられて死のうとしていることを嘆く表現とも思えます。いいえ。この闇は全地に住むすべての人々が、神に背き逆らう罪の中にあることの現れです。神の独り子であり救い主であるイエスさまを十字架につけて殺すことは、神に対する反逆であり、人間の重大な罪です。その犯罪のさ中に闇が全地を覆った。それは、罪に支配されている人間の真実の姿が明らかにされたのです。つまり、ルカは二千年前の出来事を描きつつ、罪と弱さに捕らえられている私たちの現状を描いているのです。私たちは今まさにこの闇に覆われています。その闇の根本にあるのは私たちの罪です。私たちの「闇の現実」が、イエスさまが十字架刑を受けたことであらわになったのです。
《太陽は光を失っていた》
(45a)のは、旧約聖書によれば神の怒りの印です。太陽が光を失ったとは、私たちを照らす神の恵みが失われたことを意味します。神が遣わした救い主であるイエスさまを十字架につけて殺してしまうという罪によって、人間は神の恵みを失い、怒りの下に置かれたのです。
さらに、《神殿の垂れ幕が真ん中から裂け》
(45b)ました。ここにもルカの特徴が現れています。マタイとマルコでは、これはイエスさまが息を引き取った直後に起こったことで、イエスさまの十字架の死によって救いが実現したことを描いています。この「神殿の垂れ幕」とは、神殿の一番奥の「至聖所」と、その手前の「聖所」とを隔てる幕です。その幕の向こうの至聖所には、定められた日に、罪の贖いの儀式を行った定められた者のみが入ることを許されます。罪の赦しと清めを経ずに神の前に出る者は死ぬ、とされています。つまりこの垂れ幕は、罪人である人間が神のみ前に出て行って死を招くことを防ぐための幕なのです。イエスさまの死と共にその幕が真ん中から裂けたというのは、罪人と神とを隔てていた幕が裂けて、私たちが神のみ前に出る道が開かれたことを意味しています。イエスさまの十字架の死によってその道が開かれ、罪人である私たちが赦されて神のみ前に出ることができるようになった、そういう救いが与えられた出来事として、マタイとマルコでは語られているのです。
ところがルカは、これをイエスさまの死の前に起こったこととして語ります。ルカにおけるこの出来事の持つ意味はマタイやマルコとは違い、イエスさまの十字架の死によって実現した救いを示すものではありません。この垂れ幕が裂けたことは神殿の崩落を意味しています。人間が神を礼拝するための場所である神殿が破壊され、神を礼拝するすべが失われた、神と人間とをつなぐ道が閉ざされてしまったのです。イエスさまを十字架につけて殺すという人間の罪の結果、そういう事態が生じたということです。私たちは罪によって深い闇に覆われてしまっている、それによって神との関係が断たれ、神を礼拝する道が閉ざされてしまう、神のみ前に出ることができなくなってしまう、これが闇の本質です。闇の中で、私たちは神に背き逆らい、イエスさまを拒み、二千年前にイエスさまを十字架につけた人々と同様の罪に陥っている、それをルカはここに徹底して曝くのです。
そのような闇の現実の中に、イエスさまの声が響きます。《父よ、わたしの霊を御手にゆだねます》
(46b)。しかも《イエスは大声で叫ばれた》
(46a)とあります。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という言葉は、もっと静かに語られた印象を与えます。しかしイエスさまは大声で叫ばれたのです。そうであれば、父なる神を信頼し、そのみ手に自分の霊を安心して委ねているという先ほどの解釈とは違ってきます。これは、イエスさまが、いま全地を覆っている闇のただ中から、父である神に呼びかけた声です。この暗闇、神に見捨てられた絶望の極みである十字架の上から、神の独り子であるイエスさまが、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫び、私たちの罪のゆえに遠く離れ去ってしまっている神を呼び戻しているのです。
私たちが陥っているその闇の中へと来て、その闇を引き受けて十字架の苦しみと死を味わったイエスさまが、ご自分の霊を父なる神に委ねて、父なる神はイエスさまの霊をしっかりと受けとめられました。それによって、罪の闇の中にいる私たちにも、自分の霊を神に委ね、イエスさまによって私たちの父となってくださった神との関係を整えられ、神との良い交わりを持てるようになりました。つまり私たちに神を礼拝しつつ生きる道が開かれたのです。
イエスさまはこのように大声で叫んで、そして息を引き取られました。このイエスさまの死によって、全地を覆っていたあの闇は消え去ったのです。そしてそこには、新しい世界が開かれていきました。《百人隊長はこの出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した》
(47)。百人隊長とはローマの兵隊の隊長です。彼は、受刑者を引いて来て、処刑を実行する役目に就いていました。その彼が、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美しました。これも、ルカだけが語っていることです。ルカは、異邦人であるこの百人隊長が、イエスさまの十字架の死の様を見て、神を賛美した、つまり礼拝したと語っているのです。これが、先ほどの「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」ということと対になっているわけです。イエスさまの十字架において、私たちが罪の闇に閉ざされ、神の怒りの下で、神との関係を失い、礼拝するすべを失っていることが明らかにされました。しかし、イエスさまがその十字架の上で、父なる神にご自分の霊を委ねて死んでくださったことによって、イエスさまを十字架につける罪の中にいる私たちが、父なる神を賛美し、礼拝する道が開かれたのです。《見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った》
(48)。この群衆は、ピラトのもとでの裁判において、《「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた》
(21)人々です。しかし敵意と悪意をもって眺めていた彼らにも、自分たちのしたことを悔いる思いが生じているのです。イエスさまの死によって、そのような転換が起っています。罪の闇の支配が終わり、新しい世界が開かれ始めているのです。この恵みの中で私たちも、自分の人生を父なる神に委ねつつこの人生を歩む者とされていきます。そしていつか死を迎える時には、「父よ、私の霊を御手にゆだねます」、と父なる神を信頼し、そのみ手に自分の霊を安心して委ねることができるようになるのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子が御父の心を証しし、私たちを父なる神と結び直すために命を献げてくださったことを感謝いたします。御子の十字架に証しされた慈しみ深い父のもとに私たちが立ち帰って生きることができますように。救い主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン
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