Sola Gratia

放蕩息子のたとえ

イエスさまが徴税人や罪人たちと食事をしているのを見たファリサイ派の人々や律法学者たちが、《この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている》(2)と非難したのに応えて、イエスさまは《一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある》(10)のにと嘆き、三つのたとえを話されました。

その三つ目のたとえは、ある人に息子が二人いて、弟の方が《お父さん、わたしの頂くことになっている財産の分け前をください》と要求することから始まります。父親はそれをゆるして《財産を二人に分けてやった》(12)。すると、幾日もたたないうちに、《下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち》(13)ました。

これは、父なる神とわたしたちの姿です。わたしたちは、成熟した社会ではもう神は必要ない、「神は死んだ」と言い出して、神を自分たちの思考範囲から追い出しました。

神を追い出して、自分たちだけの知恵と計らいで生き始めると、人間は自分たちの人間的な幸福という欲望を際限なく追求し始めました。そして強い者、富む者がその欲望を満たし、強い者、権力のある者だけが、自分のしたい放題のことをし、弱い者を虐げました。

そのように生き始めたとき、人間は自分たちの欲望に振り回されることになったのです。それを聖書は「罪の奴隷」になった、と言います(ローマ6章17,20;ヨハネ8章34など多数)。

自立とは、自分の人格を認めてもらうことです。それは同時に他者の人格も認めるということです。そしてどんな人の前に立っても、卑屈にならないということでもあります。自分を失わない、それが自立です。

確かにある時期に親から離れないと自立できないということはあるでしょう。しかし子は大人になると、親と対等な立場で親の人格を尊重できるようになります。その時に子は親から本当に自立したことになります。

自立を、ただ親から離れることだ、そうして自分のしたい放題のことをすることだと考えたこの弟は、結局は放蕩に身を持ち崩して財産をなくします。《彼は食べるにも困り》、ついには《豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たした》(16)いまでに落ちぶれます。それで、《彼は我に返》ります。《ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と》(17-20)。

このように、彼が父親の元に帰ろうとしたのは、ただ父親のもとにいったら、食物にありつけると思ったにすぎません。これでは、到底真の悔い改めにはなりません。しかし聖書がここで「彼は我に返って」と記しているのは、これが悔い改めの第一歩だと考えているからでしょう。動機がどうであれ、ともかく彼が父親のもとに帰ろうと思い立ち、そこへ足を向け始めたということ、これが悔い改めの重要な第一歩なのです。

私たちが神を求めようという気持ちになる動機も、結局はこの息子とあまり変わらないのではないでしょうか。つまりなんらかの安心を得たいという御利益的な要因で、神を求め始めるのです。そのようにして聖書を読み始める、教会に通いはじめる。聖書はそれを悔い改めの第一歩だと見ているのです。

彼の心はまだ自分に向かっています。自分の腹を満たしたい、自分が幸福になりたいという自分中心の思いでいます、しかしからだは父親のほうに、父なる神のほうに向かっている、これがわたしたちの悔い改めの姿ではないでしょうか。

父親はどうしていたのでしょうか。《彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した》(20)とあります。父親は息子が自分のもとを去ってから、畑仕事を終えると毎日毎日、彼が去っていったほうを見て、息子が帰ってくるのを待ち続けていたのです。

しかしそれならば、どうして息子を捜しにいかなかったのでしょうか。見失った羊のたとえの羊飼いは、迷い出た羊のために、他の九十九匹を野原に残して探し求めたのに、この父親は息子を捜しにいかず、ただ待っています。

息子が「我に返って」、それが不十分な悔い改めでも、ともかく足を父親のいる方向に向ける、それまでは父親は待ち続けます。それが羊ならば、羊飼いは探し求めるでしょう。しかし相手は人間です。その人格を、自由意志を、父親はあくまで尊重するのです。

ヨハネの黙示録の悔い改めを勧める記事で、イエスさまは、《見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう》(3章20)と語っています。この「わたし」は、イエスさまです。イエスさまは、わたしたちの心の外側に立って、戸をたたいています。わたしたちがイエスさまの「声を聞いて戸を開けるならば」、その時にはじめてイエスさまはわたしたちの心の中に入られます。それはイエスさまがわたしたちの人格を尊重して、わたしたちの自由をあくまで重んじてくださるからです。わたしたちのほうで扉を開けるまでじっと待っていてくださるかたなのです。

さて、父親が先に帰ってくる息子を見つけました。息子は自分が先に「我に返った」というかもしれませんが、彼にそうさせたのは、実は父親の愛であり、父親の心です。それに気づかない限り本当の悔い改めは起こりません。

父親のほうが先に自分をみつけ、そして父親のほうから、走り寄り、その首を抱いて接吻してくれたのです。その父親に対して、彼は用意したセリフ、計算したセリフはもう口に出しません。彼はこう言いました。《父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません》(21)。その後の言葉、《雇い人の一人にしてください》(19)という言葉は口に出せなかったのです。ただ赦してくださいと告白しただけです。

もし、後の父親と彼とが主人と雇い人の一人の関係になったならば、それは権利と義務という関係にすぎず、恵みによって救われるという関係、父と子という人格関係でなくなってしまいます。

父親はもちろんそれを望んでおらず、そして子もそれを要求してはならないのです。彼は父親の愛に触れるまでは主従関係でも仕方ないと思っていたかもしれません。しかし父親の愛にふれた時に、もはやもうそうした思いを捨てて、親と子の関係に立ち返ることができたのです。これが本当の意味での悔い改めです。

父親はしかりもせずに、彼を受け入れ、それどころか、最上の着物を着せ、最上のご馳走で彼が帰って来たことの喜びを表したのです。

ところが兄が帰ってきて、それを知りました。兄は怒って、家に入ろうとしません。そのため、同じく父親のほうから出てきて、兄をなだめようとしました。ところが兄はそれを拒否してこう言います。

《わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもとあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、あなたは肥えた子牛を屠っておやりになる》(29-30)。彼は、わたしはあの弟よりももっと良い待遇を得てもよさそうなものだと父親にいうのです。彼がそれまで父親にもっていた不満がここで一気に現れてしまったのでしょう。彼は父親のもとにありながら、ひとつも喜びはなかったのです。彼にとって、自分は父親に仕えるできのいい雇い人でした。

これはまさにファリサイ派の人々、律法学者の神に対する考えです。自分たちは律法を守っているから救われる資格も権利もある、あなたにはわたしを救う義務がある、と神に要求しているのです。それなのにあの罪人や取税人とあなたは一緒に食事をしている、それはどうしてなのか、と彼らはイエスさまに文句をいったのです。

父親は兄に対してこう答えます。《子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか》(31-32)。

決して権利と義務という関係などではない、お前はいつもわたしと一緒にいながらどうしてそれが分からないのか、どうして神との関係を雇い人の主従関係でしか捉えられないのか、と嘆いているのです。

父なる神は、あくまで父と子の関係の中にわたしたちを招こうとしています。そのために、わたしたちのほうがその関係を心から望むまで、父なる神は忍耐強く待ち続けてくださるのです。この神のみ心にわたしたちは気づきたいと思います。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたが御子イエスさまを通して、私たちに無条件の愛を、救いの恵みを備えてくださったことに感謝します。私たちもまた、父であるあなたに立ち帰り、喜びの祝宴に加わることができますように。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン


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