31ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」 32イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。 33だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。 34エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。 35見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」
9章51節に《イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた》
とありました。この9章51節から19章27節までが一つのまとまりで、エルサレムへ向かう途上での出来事が語られています。きょうの箇所も、イエスさまがエルサレムへ向かう歩みの中での出来事を語っています。
事の発端は、ファリサイ派の人たちがやって来て、イエスさまに《ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています》
(31節)と言ったことにあります。このヘロデは、ガリラヤとペレアの領主であったヘロデ・アンティパスです。ファリサイ派の人たちは「ここを立ち去ってください」と言っていますが、イエスさまの身の安全を慮ったのか、それともヘロデと共謀して、イエスさまをヘロデの領土から追い出そうとしたのか、はっきりしません。
このファリサイ派の人たちの発言を聞いたイエスさまの返答が、32節以下で語られています。イエスさまはこの人たちだけに話したのではなく、そこに集まっていたユダヤ人たち皆に向かって話しています。《行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい》
(32節)。「あの狐」とは、ずる賢いヘロデのことです。イエスさまはすでに神の国が到来し、神のご支配が始まっているしるしとして、悪霊を追い出し、病気をいやしました。「悪霊を追い出し、病気をいやし」とは、イエスさまの働きの全体を指しているのです。
イエスさまは「三日目にすべてを終える」とヘロデに伝えるよう言います。「三日目に」というのは、「もうすぐ」ということです。イエスさまは、表面的には、自分がもうすぐすべてを終えてヘロデの領土から出て行くと言っています。自分の領土で騒ぎを起こすな、自分の支配を脅かすな、と願っていたヘロデに対して、「自分はもうすぐあなたの領土を出て行く」、と言ったのです。
続く33節でイエスさまはこう言います。《だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない》
。冒頭の「だが」は、とても強い否定の表現です。確かにもうすぐイエスさまはヘロデの領土から出て行く、「だが」それは、「今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」からなのです。
イエスさまが「自分の道」を進むことは、神のみ心に従うことにほかなりません。「わたしは・・・自分の道を進まねばならない」の「ねばならない」は、神の意志を言い表す言葉です。イエスさまが自分の道を歩んでいくその先に、エルサレムがあります。そこで十字架に架けられて死に、三日目に復活し、天に昇ることこそ、神のみ心です。神の意志が実現するために、神の国を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病気をいやしながら、主イエスはエルサレムへ向かって進んで行くのです。
神の意志は、32節の《三日目にすべてを終える》
というイエスさまの言葉にも示されています。「三日目にすべてを終える」は、原文では受け身の文章です。イエスさまが三日目にすべてを終わらせる、と言っているのではないのです。聖書はしばしば神のみ業を受け身の文章で語ります。ここでも神によって三日目に終わらせられる、と言われているのです。イエスさまがヘロデの領土から出てエルサレムへ向かい、そこで十字架に架けられて死なれ、三日目に復活され、天に昇られることのすべてが、神によって終わらせられることを、別の言い方をすれば、完成させられることを言い表しているのです。
《預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ》
(33節)というイエスさまのお言葉も神のみ心だけを見つめています。ユダヤ人社会にとっての中心地であるエルサレムでこそ、神によって遣わされたイエスさまは死なねばならない。ユダヤ人社会の中心地から、イエスさまによる救いの良い知らせが広がっていくために、イエスさまはエルサレムで死ななくてはならないのです。それが神のみ心であると見極めて、ご自身の進むべき道として従われたのです。
34節でイエスさまは《エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか》
と言っています。エルサレムへの嘆きが語られています。しかしこの嘆きの言葉はイエスさまの言葉というより、神がイエスさまを通して語られた言葉として、神の嘆きとして受け止めるのが良いと思います。「お前の子ら」、つまり「エルサレムの子どもたち」とは、エルサレムに住んでいる人たちだけでなく、すべてのイスラエルの民のことです。神は、イスラエルの民が、ご自分が遣わした預言者たちを殺してきたことを嘆いているのです。
神は繰り返し、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」、イスラエルの民を集めようとしてきました。捕囚によって散らされたイスラエルの民を集めることは、イスラエルの民を救うことにほかなりませんでした。神は捕囚によって世界中に散らされたイスラエルの民を東から西から、北から南から「集めて」くださり、救い出してくださったのです。この愛のゆえに、神は預言者を遣わし、預言者が語る言葉を通して、イスラエルの民が神の「み翼の陰」(詩17編8,36編8)に身を寄せ、神の慈しみと守りに覆われて生きるよう招き続けました。しかしイスラエルの民はこの招きに応じようとしません。この神の招きを拒み、神が遣わした預言者たちを殺してきたのです。
イスラエルの民だけではありません。私たちこそ、「めん鳥が雛を羽の下に集める」ような、神の愛を拒んできました。雛はめん鳥の保護の下でしか生きられません。私たちも同じように、神の「み翼の陰」でしか、神の守りの下でしか生きられないはずです。それなのに私たちは自分の力で生きることができると、神なしに生きることができると勘違いしています。私たちは神の招きを拒みます。私たちを呼び集めるみ言葉に耳を傾けようとしないのです。《お前たちは応じようとしなかった》
(34節)とは、私たち自身の罪を突きつけるみ言葉です。私たちは神の招きを拒み、神から離れて生きてしまうことで、自分自身に重荷を負わせているのです。
私たちが「み翼の陰」に生きられるようになるために、イエスさまは今日も明日も、その次の日も自分の道を、十字架への道を歩んでくださり、十字架で死んでくださいました。この死により、私たちは神の慈しみと守りに覆われて生きられるようになったのです。これを信じて、受け入れて生きるところにこそ、本当の平和が与えられ、隣人との良い関係が与えられていくのです。
35節で《見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない》
と言われています。「『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時」とは、19章のエルサレム入城の時のことではありません。復活した主イエスさまが再び天から地上に来る時、世の終わりの裁きの時、救いの完成の時のことです。そのときユダヤ人たちは、そして私たちはイエスさまを見ます。しかしそのときまでは、私たちは天にいるイエスさまをこの目で見ることができません。「お前たちの家は見捨てられる」と言われています。世の終わりに私たちは見捨てられ、裁かれるのでしょうか。神の愛と招きを拒み続け、イエスさまを十字架につけたユダヤ人が、いえ、ほかならぬ私たちが、悔い改めて神に立ち帰って生きることによって、私たちは、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と声高らかに賛美して、再び来られる主イエスを迎えることができるのです。それを神は切に願っています。今も、私たちが神に立ち帰り、神の「み翼の陰」に生きるよう、本当の平和に生きるよう招き続けてくださっています。私たちはこの神のみ心と愛を受け止め、神に立ち帰って生きるよう招かれ続けているのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。エルサレムは自らの繁栄を誇り、み心に背き、御子を受け入れませんでした。背く私たちもエルサレムの住民です。今御子の招きの声を聞き、心を翻して御許に立ち帰ります。み翼の陰に宿らせてください。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン
© Sola Gratia.
powered by freo.