16「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 17あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。 18それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
19「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。 20富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 21あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
私たちは今日から受難節を歩んでいきます。その四十間、私たちは確かにイエスさまの苦難と十字架を心に刻むようにして歩んでいくわけです。しかし、私たちにとってイエスさまの十字架と復活は一繋がりの出来事です。
イエスさまの救いに与った私たちは、喜びと平安の中を歩む者にしていただきました。それは神さまの守りと支え、導きの中に生かされていることを知ったからです。神さまは独り子さえも与えてくださるほどに私たちを愛してくださり、天地のすべてを造り支配される全能の力をもって私たちを守り、支えてくださっている。しかも、永遠から永遠まで生きておられるお方であり、それ故に私たちは、この地上の命が終わってもこの方の御手の中に生かされ、永遠の命までも与えられることを知りました。私たちに求められていることは、ただこのお方を信頼することです。この方のまなざしの中に生きるということです。
さて、イエスさまは6章から三つの善き業について語ります。1-4節は施しについて、5-15節は祈りについて、そして16-18節が断食についてです。この三つの業は、当時のユダヤ教において大切にされていた善き業です。
「施し(社会貢献)」や「祈り」が大切だということは私たちも受け継いでいますが、「断食」はあまりピンとこないのではないかと思います。なぜ断食をするのか、ユダヤ教においては、生命の維持に不可欠な食への欲、それを断ってまで自らの罪を悔い、赦しを求める。言うなれば、命がけで罪の赦しを求めるというのが断食の本来の意味でした。ですから、「苦行」とも呼ばれました。イエスさまの時代にはファリサイ派の人々は月曜日と木曜日に断食をし、それを誇っていました。
イエスさまは、施しについても、祈りについても、それ自体が悪いとは言っていません。イエスさまが問題にしたのは、それを人に見せるように行い、神さまではなくて人に認められよう、信仰深い人だと賞賛されようとするあり方です。断食も同じです。本来、ただ神さまの御前に自らの罪を悔い、赦しを求めるために行う行為を、人から賞賛されるために行う。それでは無意味だ、むしろ有害だということです。
ここで問題になっているのは、人の目です。神さまのまなざしよりも人の目を気にする。それは、神さまの御前に正しいあり方ではありません。私たちの為すことに報いてくださる神さまの御前に生きる。それが何よりも大切なことなのです。
神さまのまなざしではなく、人の目を気にして行動する人を、イエスさまはここで「偽善者」と言っています。アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは1946年に『菊と刀』を著して、「日本の文化は恥の文化、キリスト教の文化は罪の文化」と言いましたが、大筋においては当たっていると思います。恥の文化とは、いつも周りの人の目を気にして生きる文化です。私たちは日本人として生まれ育つ中で、こういうものを否応なしに身に付けています。しかし、イエスさまに出会って、まったく違う心のあり方を示されました。それが「神の御前で」です。神さまの御前に生きるというあり方はすぐには身に付かないかもしれませんが、ここに生き始める時、私たちは真に自由な者となることに気付くでしょう。
忖度(そんたく)という言葉が飛び交った時がありました。この忖度というのはまさしく人の目を気にして生きる日本的なものです。忖度のすべてが悪いとは言えませんが、やはり「神の御前で」生きるのでなければ、私たちは何を求め、何を目指して事を為すのかが分からなくなってしまうことでしょう。
私たちを縛っているのは人の目であることをイエスさまは指摘しましたが、その他にもう一つあります。それは富、お金です。お金が嫌いという人はいないでしょう。しかし、このお金というものがどれほど私たちを不自由にすることか。富というものは、私が所有しているようで、いつの間にか私の方が富に捕らわれてしまう、そういうものではないかと思います。イエスさまはそのことをよく御存知でした。ですから、《あなたがたは地上に富を積んではならない》
(19節)、《富は、天に積みなさい》
(20節)、そして《あなたがたは、神と富とに仕えることはできない》
(24節)と告げたのです。
どうして富が力を持つのかと言えば、それはこの地上の世界の営みが、すべてお金を媒体として為されているからでしょう。生きていくためにはお金はなければならないものですから、お金に頼るということなのでしょう。イエスさまはお金が要らないとは言われません。この世界で生きていくのにお金は必要です。しかしそれは、私たちが本当に頼るものではないのです。私たちが本当に頼るべきなのは、ただ一人の神さまのみ。このことがはっきりしないと、私たちはお金を持っているようでいて、いつの間にかお金に支配されてしまいます。富の奴隷になってしまう。それでは、決して幸いになることも平安を得ることもできません。神の民として生きることはできません。そう言われたのです。
お金は必要です。しかし、どうすれば富を持ちながらそれに支配されないで、天に富を積むことができるのでしょうか。
富を天に積むとは、神さまの御心に従って富を用いるということ、自分が手にしているこの富の本当の所有者は神さまであるということを弁えるということでしょう。「富」と訳されている言葉は、直訳すれば「宝」です。自分が一番大切にしているものです。自分が一番大切にしているもの。その本当の所有者は私ではなくて神さまです。さらに言えば、私たちが本当に最も大切にし、最も頼りにしているのは、神さまです。もしその一番頼りにしているものが神さま以外のものならば、私たちはそれを偶像とし、それを神としているということになります。そこに自由はありません。
私たちは神さまからすべてをいただいています。この肉体の命も、お金も、時間も、能力も、家族も、すべては神さまが私たちに与えてくださったものです。私たちはただその管理を任されている。私たちはそれらの主人ではなく、管理人なのです。この管理人という感覚はとても大切です。自分が主人だと思うから、自分のものだと思うから、逆にそれに支配されてしまうのです。自分のものでなければ、それに支配されることもありません。管理人に求められているのは、主人の考えに従ってそれを用いるということです。それが、天に富を積むことになります。これは先程の断食についての教えと同じく、神さまの御前に生きるあり方です。
イエスさまは《あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ》
(21節)、と言います。これは、私たち人間の心のあり方を鋭く見抜いた言葉です。何を大切にするか、宝とするか、そこに私たちの心もある。地上の富が第一の宝ということになれば、それをどう守るか、増やすか。それに心を、時間を、労力を使って、それに支配されます。しかし、神さまが第一という人は、自分の心も富も労力も時間も、神さまの御業に仕えることに注ぐことになります。「私の富は、私の心は、天にあります」、そうはっきり言える者でありたいと思います。
人の目、この世の富。それは私たちを惑わせます。何が最も大切であり、どのような者として生きるか。そのことをイエスさまは私たちにはっきり教えてくださっています。人の目ではなく、神さまのまなざしに生きなさい。神さまの御前に生きなさい。そこにこそ自由があり、平安があり、命がある。私たちの地上の命はやがて閉じられます。その時まで、私たちは神さまに与えられた時間を、神さまにすべてを任された管理人として生きるのです。「忠実な善い僕よ」と神さまに迎えていただくために、今週も神の子、神の僕として歩んでいきたいと心から願います。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子は神から引き離そうとする悪魔の誘惑に打ち勝ち、私たちの歩むべき道を切り開いてくださいました。御子にならい、神を敬い隣人を愛する道を進めますよう、私たちの歩みを守り、導いてください。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン
© Sola Gratia.
powered by freo.