Sola Gratia

聖書が成就した

21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」 23イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」 24そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。 25確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、 26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。 27また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」 28これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、 29総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。 30しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

《イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた》(20a)。聖書は立って朗読しますが、その解釈や奨励説教は座ってします。イエスさまが巻物を巻き、係の者に返して席に座ると、《会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた》(20b)という張り詰めた空気になりました。ナザレの人たちはイエスさまがカファルナウムなどで行った力ある業のことを聞いていたので(4章23参照)、この同郷の人に特別の興味と関心を寄せていたからです。この人が、今読まれたイザヤの預言(18-19節=イザヤ61章1-2a節の引用)についてどのようなことを語り出すのかと、固唾をのんで見つめています。

そのような会衆に向かって、イエスさまは、《この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した》(21)と宣言し、その内容を説き始めます。預言の個々の句について解説された内容は伝えられていませんが、ルカはこの時のイエスさまの講話の核心を、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という宣言として要約しています。

これは、実に驚くべき宣言です。聖書が終わりの日に現れると預言したメシア、主(神)から油を注がれた人、主の霊がとどまる人が、今目の前に立っているという宣言です。イエスさまの到来は聖書の成就であるという宣言は、福音告知の最も重要な項目です(コリント一15章3-5、ローマ1章2-4など)。ルカは、このことをナザレの会堂でのイエスさまの宣言で告知しているのです。

イエスさまは、引用されたイザヤの言葉の一つ一つについて語られたことでしょう。イエスさまは、ヨベルの年が無条件に負債者を負債から解放したように、貧しい者が無条件に主の御霊の働きによって苦悩から解放される「恵みの年」の到来を告知します。ここでもイエスさまはその働きを先取りして、イザヤの預言の言葉によって神の終末的な恵みの時の到来をよくわかるように繰り返し教えさとしたことでしょう。自分たちがよく知っているイエスさまの口から出るこのような恵みの言葉にナザレの人たちは驚きます。

《皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか」》(22)。この驚きは、このような聖書の深い内容が、今まで聞いたことのないような権威ある仕方で(マルコ1章22)語られることに対する驚きですが、実は、それがごく身近な、自分たちの一員であるイエスさまによってなされたことに驚いているのであることが、「この人はヨセフの子ではないか」という言葉で表現されています。彼らの思いを見抜いて、彼らが言おうとしていることを、イエスさまの方から言い出します。《「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない」》(23)。ルカは、ナザレの会堂での出来事をガリラヤ伝道の最初に置いていますが、この記事はイエスさまの活動がすでにカファルナウムで始まっていたことを示しています。ナザレの人たちは、イエスさまがすでにカファルナウムで病気を癒し悪霊を追い出す力ある業をなされたことを聞いているのです。ナザレの人たちがイエスの行う奇跡を見たいと願っていることを見抜いておられるイエスは、その要求を拒否されます。《そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。・・・」》(24-27)。預言者が故郷で歓迎されず、敬われないのは、故郷の人たちは預言者の人間としての面をよく知っているので、預言者の外面だけを見て、内なる神の霊の働きが見えないからです。しかしルカは、諺となっているこの言葉を、福音がユダヤ人にではなく異邦人に向かうようになる預言として用います。

預言者は自分の故郷では歓迎されないものであることを、イエスさまはイスラエルの歴史の中で代表的な預言者とされているエリヤとエリシャの事例を論拠として語ります。エリヤの事例は列王記上17章からの引用です。エリシャの事例は、列王記下5章にあります。両方とも、神から遣わされた預言者が、神から受けた言葉で助けたのは、イスラエルの人ではなく、異邦の女や異邦の将軍であったことを語っています。このように、イエスさまの福音が同族のユダヤ人には歓迎されずに拒否され、異邦の人々に向かうことの預言として用いられています。

イエスさまが自分を受け入れないナザレの人たちに向かって、これを語ったとするのはルカ福音書だけです。ルカは、福音がイスラエルではなく異邦人に向かうことを、イエスさまのガリラヤ伝道の初めに、イエスさまの宣言としてこの記事を置きました。福音がイスラエルではなく異邦人に向かうことは、ルカ福音書の続編。使徒言行録の主題です。それと対応する形で、ルカはこの福音書においても、その主題をイエスさまご自身の宣言として最初に置いたのです。

《これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした》(28-29)。このようなイエスさまの発言を聞いたナザレの人たちは皆、初めの驚きが激しい憤りに変わります。その憤りの理由には、次のような多くの要素が絡まっていると思われます。

まず、「ヨセフの子」として自分たちと同じように育った仲間の一人であるはずのイエスさまが、自分こそ「主の霊」がとどまり、神から油を注がれたメシアとして、聖書の預言を成就し、最終的に民を解放する者であると宣言することは、認めることができない不遜であり、許されない僭越ではないかという怒りです。

また、そのように主張するイエスさまが、その主張を根拠づけるために要求したしるしを拒否するのは、自分たちを軽蔑しきっている態度ではないか。その上、律法に忠実に歩むユダヤ教徒である自分たちを無視して、律法を知らない異邦人に救いが与えられると主張することは、聖なる神の律法を汚す発言ではないか。このような感情が爆発して、皆が総立ちになります。

さらに、人間でありながら自分を神のような立場に置く者、神の聖なる律法をないがしろにするような発言で律法を汚す者は、神を汚す者であり、そのような者はイスラエルの中から取り除くことが、イスラエルの民の義務とされていました。そして、その方法として石打の刑が定められていました。

石打の刑は、犠牲者を崖や城壁のような高いとことから突き落とし、その上に死ぬまで石を投げつけます。ナザレの会堂の人たちは、律法に対する熱心から、イエスを石打にしようとします。彼らは「イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうと」します。

《しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた》(30)。激しく憤ってイエスを取り囲み、イエスさまを崖から突き落とそうとしている人々の「間を通り抜けて立ち去る」のがどうして可能かということは問題になっていません。ヨハネ福音書では、ユダヤでユダヤ人たちがイエスを石打にしようとしたが、イエスさまは身を隠して逃れたという出来事が繰り返されています(ヨハネ8章59、10章31-39)。ルカもヨハネと同じく、同郷または同族のユダヤ人がイエスを石打にしようとしたと書いて、ユダヤ人のイエスに対する拒否と敵意を表現しています。これは、イエスさまが十字架に掛けられることを予感させられる出来事です。

しかし、イエスさまが「人々の間を通り抜けて立ち去られ」たのは、そこにも神の守りがあり、逃れの道を備えてくださったのでしょう(コリント一10章13)。人間の思いと神の計画がぶつかるところでは、私たち人間の思いを越えて、神の計画が優先されます。その神の計画のもとで、私たちが守られ、導かれていることを信じたいと思います。

祈りましょう。父なる神さま。御子イエスさまの福音は人に喜びをもたらすものでありつつも、人の思いに反するために無視・拒否・敵意を受けました。私たちの思いを清め、福音のみ言葉を喜んで受け入れる新しい人に変えてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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