Sola Gratia

真理と自由

31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」 34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。 35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。 36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。

《イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする》(31-32)。

「イエスを信じたユダヤ人たち」とはどのようなユダヤ人なのでしょうか。さまざまに論じられていますが、彼らがイエスさまの言葉に従い続けることをとおして本当の弟子になった者でないことは、33節以下の対話で明らかです。彼らは、おそらく以前からイエスさまを信じていながら、最後まで「昔の人の言い伝え」から踏み出せなかった、「イエスさまを信じたユダヤ人たち」なのでしょう。

イエスさまは、御自分を信じたユダヤ人たちに、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子であり、真理を知るようになる」と言っています。このことから、「イエスさまを信じる」ことと「本当にイエスさまの弟子である」こととが区別されているのが分かります。イエスさまをメシア、キリストと言い表す者たちの輪にいる人々の中で、本当にイエスさまの弟子である者とそうでない者が区別されているのです。そして、「本当の弟子」であることは、「イエスさまの言葉にとどまる」ことにあり、これは、御言葉である聖霊が「自分の内に」とどまり続けてくださることに他なりません(6章56参照)。

ここで「わたしの言葉にとどまる」と言われていますが、この「言葉」は複数形ではなく単数形です。しかも、単純な「わたしの言葉に」ではなく、「わたしのものである言葉(ロゴス)の内に」という特殊な表現になっています。すなわち、これはイエスさまが語られた諸々の戒めの言葉を守るという意味ではなく、復活のイエスさま御自身である「ロゴス」に結ばれて歩むわたしたちの実相(リアリティ)を指していると解釈すべきです。

ここの「本当の弟子」とそうでない者の区別は、ただ口先でイエスさまをキリストと言い表しているか、聖霊によって現実に霊なる復活のキリストと結ばれて生きているかの違いであると言えます。

イエスさまの内にとどまることによって「本当の弟子」となるならば、「真理を知るようになる」、とイエスさまは言います。「真理」は、ヨハネ福音書では、「義」や「和解」、「自由」や「命」というようなキリストにある救いを指し示す、中心的な用語になってきます。

復活のキリストであるイエスさまは「恵みと真理」に満ちた方であり(1章14)、この方が世に来られたことによって「恵みと真理」が世に現れたのでした(1章17)。イエスさまは恵みと真理の体現者であり、救いとはイエスにおいて与えられているその恵みと真理を受け取ることです。復活のイエス・キリストこそ「道であり、真理であり、命である」方です(14章6)。つまり、「真理」は「命」そのものなのです。

神とかかわる場における霊的な実相は、神の聖霊によって実現するものですから、「真理」はいつも聖霊と一組で語られることになります。聖霊は「真理の霊」と呼ばれ(14章17)、この聖霊がわたしたちを「真理」に導き入れてくださるのです(16章13)。聖霊によって真理に導き入れられ、その場で父との交わりに生きること、すなわち「霊と真理にあって父を礼拝する」ことこそ、父が求めておられる「まことの礼拝」です(4章23)。

ヨハネ福音書において「真理」はこのように救いの真実相を指し示す中心的な用語ですから、真に復活のイエスさまとの交わりに生きる者が受ける境地が「真理を知る」と表現されることも理解できます。この場合の「真理を知る」は、頭で「知る」(第三者として認識する)のではなく、神との現実のかかわりに入り、その現実を体験するという意味です。

ユダヤ教では、「律法を学ぶ」ことが人を罪から遠ざけると教えました。ギリシアの哲学者たちは、「理性」が人を自由にすると考えました。ヨハネ福音書は、「律法」や「理性」ではなく、「イエスさまの言葉にとどまる」ことによって「真理を知る」ことが、その人を罪から「自由にする」と言います。ですから、人が「真理を知って自由になる」のは、「真理についての知識」を自分なりに納得し理解することによって自由になるのではありません。神からくる「真理」それ自体がその人に働く時に初めて、人は「罪から自由になる」のです。イエスさまが《真理はあなたたちを自由にする》(32)と言われたように、ここでは「真理」が「自由」をもたらす源泉とされています。

《すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷にもなったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか》(33)。

この「自由にする」または「解放する」という動詞は、一般に奴隷を解放することを指すのに用いられる動詞です。当時の社会環境では、これを聞いた者が奴隷の解放を思い浮かべるのは自然なことです。イエスさまの言葉を聞いたユダヤ人たちはそう理解して、「今までだれの奴隷にもなったこともないのに、どうして『解放されるであろう』などと言うのか」と抗議します。ここでも、イエスさまは霊的な次元の出来事を(奴隷解放の比喩で)語っているのに、聞く者は地上の人間的な体験の次元で理解するというすれ違いが起こっています。

ユダヤ人は、自分たちはアブラハムの子孫であり、アブラハムとその子孫に神から与えられた契約(約束)を受け継ぐ者(創世記17章7-8)であるという矜持を持っていました。ユダヤ教徒は自分たちの特権と特別の立場を「アブラハムの子孫」という標語で誇っていたのです。

アブラハムの子孫であるイスラエルの民も、エジプトやアッシリア、またバビロニアやペルシャ、ローマなどの諸強国に支配され、奴隷的な境遇を甘受してきましたが、契約を受け継ぐアブラハムの子孫として、直接神に所属し、神以外の誰にも仕えたことはないという宗教的自負がありました。また、個人的に奴隷になったことはないという社会的身分の誇りからの発言でもあるのでしょう。ユダヤ教徒は、イエスさまを信じたユダヤ人を含め、自分たちが律法の奴隷であり、それは取りも直さず罪の奴隷であることを自覚していません。

《イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である》(34)。

自分たちはアブラハムの子孫であり奴隷ではないと主張するユダヤ人に向かって、イエスさまは(ヨハネ教会の人々は)、「あなたたちは奴隷だ」と断定します。この宣言の重大さを強調するために、この宣言は「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う」(原文の直訳)という荘重な定式が用いられています。

「罪を犯す者」の「罪」は単数形です。「罪(単数形)を犯す」とは、罪の中に生きていること全体を指します。個々の律法規定に違反する行為を指す「罪(複数形)を犯す」とは違います。罪の中に生きている限り、ユダヤ教徒であろうが何教徒であろうが、みな等しく「罪の奴隷」だと宣言します。

「罪を犯す者」は、罪(単数形)の力に支配され、引きずられて罪の中に生きているのですから、罪の力の支配下にある者、すなわち「罪の奴隷」です。パウロは、人間は異邦人もユダヤ人もすべて「罪の力の支配下にある」ことを強調しました。人間はみな生まれながらに「罪の奴隷」(ローマ5章17)なのです。ここの「罪の奴隷」という理解は、パウロの延長線上にあります。

《奴隷は家にいつまでもいるわけではないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる》(35-36)。

イエスさまは、当時の奴隷制社会の実情を比喩として用いて、罪や律法の奴隷である者は父との交わりにとどまることはできないのであって、奴隷状態から解放されて真に自由になった者だけが父の家にとどまれるという原理を明らかにします。その上で、イエスさまが私たちを自由にする「子」であると語ります。

人を罪の奴隷から解放するのはキリストですが、ここの文脈では、そのキリストが「いつまでも父の家にとどまる」資格のある「子」として、奴隷の解放を行うことが強調されます。「子が解放する」ことによって、解放された者は、子と一緒に「いつまでも父の家にとどまる」者となるのです。子と一緒にいつまでも父の家で父との交わりに生きるようになることで、完全に奴隷の身分からの解放が実現するのです

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたは教会の頭であるイエス・キリストによって、教会に真理の証し人を興してくださいます。世にある教会が絶えず改革されることによって、あなたの福音の光をつねにすべての人に輝かせてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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