13イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 14しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 15はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 16そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
イエスさまに触れていただこうと、人々が子供たちを連れて来ました。子供たちが無事に元気に良い子に育つよう、イエスさまの祝福を求めて、親たちは子供たちを連れて来たのです。
しかしイエスさまの弟子たちはこの親たちを叱り、追い返そうとしました。折しも、イエスさまはガリラヤから南へ、エルサレムへと最後の旅を始めていました。次の11章には、イエスさまがエルサレムに入ったことが語られており、その週の内にイエスさまは捕えられ、十字架につけられて殺されます。つまり10章から始まったエルサレムへの旅は十字架の苦しみと死への歩みです。イエスさまはすでに二度にわたって、ご自分が間もなく捕われ殺されることを予告していました。弟子たちはその言葉の意味がしかとは分からないながらも、今大事な時を迎えようとしているらしき先生にできるだけ余計な負担をかけないように、と考えていたのでしょう。イエスさまのもとには、ただでさえ多くの人々が来ているのに、このうえ子供たちにまでまつわりつかれたら、イエスさまは疲れ果ててしまう、弟子たちはそういうことからイエスさまを守ろうと気配りをしていたのです。
弟子たちにはさらにこういう別の思いもあったかと察せられます。それは、子供への祝福を求めてやって来るこの親たちは身勝手だと責める思いです。彼らは、イエスさまの都合など考えずにやって来て、自分や家族への祝福だけを求め、それを受けると元通りの自分中心の生活へと帰って行くのです。彼らは、イエスさまに従って生きようなどという考えは少しも持っていません。自分と家族の幸せ、満足のみを求め、そのためにイエスさまを利用しようとしているのです。弟子たちには、自分たちはすべてを捨ててイエスさまに従っているという自負があり、神のため、教会のために身を献げて奉仕しようとしない者たちを、身勝手だと感じたことでしょう。そして我慢できなくなって、この親たちを叱り、追い返そうとしたのです。
しかし14節には、《イエスはこれを見て憤り》
とあります。子供たちを連れて来た親たちを叱った弟子たちを見て、イエスさまは憤ったのです。《子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない》
とイエスさまは言いました。ここで注目したいのは、弟子たちは子供たちを連れてきた親を叱ったのですが、イエスさまは「子供たちをわたしのところに来させなさい」と言ったということです。イエスさまは、子供たちへの祝福を求めている親たちの思いをそのまま認め受け入れているのではありません。つまり、イエスさまが弟子たちに「わたしのところに来させなさい。妨げてはならない」と言った対象は、子供を祝福して欲しい親ではなくて、子供たちなのです。
イエスさまがそのように子供たちを喜んで迎え入れ、祝福を与えようとしているのは、14節の後半にあるように《神の国はこのような者たちのものである》
からです。神の国はイエスさまが宣べ伝えている福音の中心です。イエスさまは《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》
(1章15節)と語ってきました。神の国とは、神の支配という意味です。神が恵みをもって私たちを支配してくださる、その神の支配が今や実現しようとしている、とイエスさまは告げていたのです。その神の国、神の恵みの支配にあずかることができるのは、子供のような者たちなのだ、だから神の支配の実現の象徴として子供たちをわたしのところに来させなさい、とイエスさまは言ったのでした。
それでは「子供のように」とはどういうことでしょうか。子供は純真であり、汚れを知らないという考え方は聖書にはありません。子供には罪や汚れがないというのは大人の勝手な願望に過ぎません。子供もやはり罪を持っている上に、その罪が大人の場合よりもよりストレートに現れます。イエスさまが「神の国はこのような者たちのものである」と言った、その意味は次の15節に、《はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない》
と示されています。「子供のように」とは「神の国を受け入れる」ということです。
「子供のように神の国を受け入れる」というのは、この場合、積極的な行為としてではなくて、与えられたものをただ受けるという受動的なこととして語られているのです。ここに出て来る子供たちが、親たちに連れて来られた者たちであることが大事です。つまり彼ら子供たちは、自分の意志でイエスさまのもとに来たのではありません。彼ら子供たちは、親に連れて来られるままにイエスさまのもとに来たのです。そしてイエスさまが受け入れ、祝福してくださるなら彼らは祝福を受けるし、そうでないなら祝福を受けずに帰ることになるのです。つまり彼らはイエスさまの祝福をまったく受動的に、ただ受けるのみです。子供というのは、ただ神の恵みをいただくしかない者です。イエスさまはそのような子供たちを喜んで迎え入れて、彼らを抱き上げ、手を置いて祝福してくださるのです。
「神の国はこのような者たちのものである」というみ言葉は、神の国、神の恵みの支配はどのように与えられるかを教えています。神の国に入り、その恵みにあずかるためには、何らかの資格を得るなり条件を満たすなりする必要はありません。自分の中には、神の国に入るに価する資格や相応しさなど何一つないのに、ただ神の恵みと憐れみによって、私たちは神の国に迎え入れられるのです。イエスさまはそういう恵みを私たちに示し、与えてくださっています。私たちはこの子供たちと同じように、イエスさまから恵みをただ受けることしかできないのです。
そのことに注目するとき、イエスさまの弟子たちに対するあの憤りの意味が分かってきます。弟子たちが神の国の恵みに、イエスさまの祝福にあずかることができているのは、彼らが立派な奉仕をしているからでも、様々なものを投げ打ってイエスさまに従っているからでもありません。彼らもまた、ただ神の恵みによって、イエスさまが彼らを選び、招いてくださったから、イエスさまのもとに集い、弟子として歩むことができているのです。そのことが分かっておらず、自分たちを何か立派な、恵みにあずかる資格のある者であるように思い、他の人々を資格のない者として斥けようとするのは、イエスさまが宣べ伝えている神の国のことがまったく分かっていないからです。イエスさまの憤りはそこに向けられているのです。
神の国に入る、つまり神の恵みのご支配のもとに、神の民として生きることは、神が恵みによって私たちを選び、ご自分のものとして召し集めてくださったことによってのみ起ることなのです。出来ることはただ一つ。神様の選びの恵み、ただ神様のみ心によって与えられている愛をひたすら受け、それを感謝して生きることだけなのです。子供のように神の国を受け入れるとはそういうことなのです。
本日のこの箇所は、古来、幼児洗礼を行うことの一つの根拠として読まれてきました。幼児洗礼というのは、信仰者の両親の下に生まれた子供に、幼児の内に、従って本人の自覚や信仰の決断なしに、親の信仰によって洗礼を授け、その子を教会の一員として迎え、教会全体で育てて行く、ということです。きょうの箇所におけるイエスさまの言葉は、幼児に洗礼を授けることについて語っているわけではありませんから、ここを幼児洗礼の直接の根拠とするには無理があります。しかしこの箇所が語っている、神の国に入ることは、人間の側のいかなる資格や決意によるのでもなく、ただ神の恵みによる選びによって与えられるのであって、私たちはその恵みを感謝して受けるのみなのだという教えは、幼児洗礼において最も端的に、はっきりと表されていると言うことができるでしょう。そしてそれは、実は大人になってから受ける洗礼においても同じです。何の資格も相応しさもない私たちが、イエスさまの十字架の死と復活によって神が成し遂げてくださった罪の赦しの恵みを信じて受け入れ、その恵みに身を委ねる時に、神が私たちを抱き上げ、私たちの人生の全体をみ手の内に置いて祝福してくださる、それが洗礼を受けるということであり、幼児洗礼も大人の洗礼もこの点は同じなのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。あなたは御子を通して人間に対する真実の御心を現わしてくださいました。私たちがあなたの救いを信じることにとどまらず、隣り人にもその救いを証しできますよう御言葉によって教え導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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