Sola Gratia

目を覚ましていなさい

36「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。37人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。38洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。39そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。40そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。41二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。42だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。43このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

きょうの説教題は、聖書の小見出しと同じく。「目を覚ましていなさい」としました。それは42節のみ言葉《だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである》から取ったものです。この「目を覚ましていなさい」ということが、きょうの聖書箇所の中心的なメッセージです。「自分の主が帰って来られる」、その「主」とはイエス・キリストです。主イエスは今おられる天から、いつかもう一度、大いなる力と栄光を帯びて、裁き主として来られるのです。この主イエスの再臨を目を覚まして待っているべきことがここに教えられているのです。

信仰において目覚めているとは、目を覚まして平和運動とか教会活動に励むことではありません。イエスさまが私たちに求めておられるのは、何かをすることではなく、「待っていること」なのです。自分で何かの行動をすると言うよりも、相手の行動を待つ、主導権は自分にではなく、待っている相手にあるのです。主導権はイエス・キリストにある、その主イエスが来られるのを待つのが私たちの信仰であり、目覚めていることなのです。このように、主導権が私たちにではなくイエス・キリストにあることが、イエス・キリストが私たちの主であるということなのです。イエスさまは主である、と私たちは信じています。それは、イエスさまが私たちの主人であり、私たちはその僕であるということです。そして私たちは今、自分の主であるイエスさまが帰って来られるのを待っている僕たちなのです。

これを「家の主人」にたとえるならば、主人が旅に出て、家にいない、その留守を僕たちが守っているということです。それが私たちの信仰の状況なのです。主人であるイエスさまが、今私たちのもとにはいない。これは、イエスさまが今私たちと共にいて守り支えてくださらないということではありません。イエスさまは、《わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる》(28章20)と約束してくださいました。イエスさまは今この時も、私たちと共にいてくださるのです。しかしそのことは目に見えません。イエスさまは目に見えない仕方で、聖霊の働きによって共にいてくださるのです。聖霊の働きによって、イエスさまは確かに私たちと共にいてくださるし、私たちを守り支え導いてくださっています。けれども、肉体をもって復活して天に昇り、父なる神の右に座わられた、その目に見える姿においては、イエスさまは今私たちの間にはおられません。不在なのです。そのイエスさまが帰って来られることを、主の再臨を私たちは待っているのです。つまり主イエスの再臨とは、今は目に見えない仕方で、聖霊の働きによって共にいてくださるイエスさまが、目に見えるお方としてもう一度来てくださることです。言い換えれば、今は隠されており、信仰によって受けとめるしかないイエスさまの支配があらわになり、誰の目にも明らかになり、すべての者がそれに服するようになることです。その主イエスの再臨を私たちは待っているのです。そういう意味で、私たちの信仰生活は、イエスさまの留守を守っている生活なのです。

待つ私たちの問題は、主人がいつ帰って来るのか、つまり主イエスの再臨によるこの世の終わりはいつなのか、私たちには分からないことから来ます。《その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである》(36)とあるとおりです。イエスさまは、十字架につけられて死なれ、三日目に復活し、そして四十日後に天に昇られました。そのことによって、今のこの世界に目に見える仕方ではいなくなられた。しかしそのイエスさまが、今おられる天の父なる神のみもとから、いつかもう一度この世に来られるということが約束されています。しかしそれが何時であるかは、父なる神のみがご存知のことであり、私たちはもちろん、天使たちも、イエスさまご自身すらも知ることは許されていません。私たちにはこれから先のことをあらかじめ知って安心したいという思いがありますが、聖書が教える信仰は、いろいろ知って安心する信仰ではなくて、目を覚まして、忍耐と希望をもって待ち望みつつ生きる信仰です。

ですから私たちは、何時帰って来られるか分からない主人を待っている僕たちです。そのような状態ですでに二千年の時が経とうとしています。「イエスさまはまだまだ帰って来はしない、いや、もう帰って来ないのではないか」という思いが起こって来るのはやむを得ないことかもしれません。しかしそれこそが、45節以下で語られている「悪い僕」の姿であり、「眠り込んでしまった姿」なのだと言われるのです。

37節以下では、人の子が来る、つまり主イエスの再臨が、ノアの洪水の話と重ねて見つめられています。洪水が起るその日まで、《人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた》(38)のです。しかし突然洪水によってすべてが滅ぼされてしまいました。主イエスの再臨による世の終わりもそのように起るのです。しかしそこで大切なことは、ノアが神からの示しを受けて、どこにも水などない野原の真中で巨大な箱船を作っていたということです。人々はそれを見ていました。つまり彼らには、終わりの到来の徴が与えられていたのです。しかし彼らはそれを見ながらも、何と馬鹿なことをしているのか、としか思わなかった。彼らの問題は、「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」ことではありません。そういう日常の生活の中で、徴が与えられていたにもかかわらず、神の意志によってこの世は終わり、すべてのものが滅びるのだということを、つまり神の支配を見つめようとしなかった、神が主人であり、自分たちはその僕であることを思わず、自分が主人であるかのように錯覚してしまった。そのようにして、魂が目覚めているのでなく、眠り込んでしまった。そのために彼らは滅びてしまったのです。

これを私たちの問題として言うならば、この世界と自分の人生、命、そのすべてが、神のみ手の内にあり、神が支配し、導いておられることを認めなくなるということです。そして、自分の人生は、命は、自分のものだ、自分が好きなように、思い通りにするのだ、と言って生きていくことです。主イエスの再臨を信じるというのは、主イエスの父なる神のこの世界に対する支配を信じることです。この世界は神の意志によって支えられており、そして独り子イエスさまがもう一度来られ、今は隠されているその栄光と力とがあらわになり、その支配が完成することによってこの世界は終わる。つまり神の支配の完成こそがこの世の終わりであると信じることです。それを信じて待つことが、主イエスの再臨を信じることなのです。そして逆にそれを信じないというのは、この世界と私たちの人生は、そんな神の導きなどではなく、この世の力、人間の思惑によって動いているのだ、だからその中で自分も、自分の思い通りに、自分がしたいように生きるのだと思うことです。それこそが、目を覚ましている者と眠り込んでいる者との違いなのです。

ですから、目を覚ましているとは、目に見えない、隠されている神の支配、主イエスによる救いの恵みを信じ、そして主イエスの支配の確立による救いの完成がいつか与えられるという希望に生きていることです。眠り込んでいるとはその逆に、この世の目に見える現実しか見ることなく、神の支配と恵みを信じることなく、イエスさまに希望を置いていないことです。私たちは、自分が目を覚ましているのか、それとも眠り込んでしまっているのかを、このことによってこそ顧み、吟味してみなければならないのです。

社会においてまたは教会において活発に活動していても、神の支配を信じ、イエスさまに希望を置くことがなければ、目覚めているとは言えません。逆に、病床にあって自分で何も活動できない人でも、イエスさまにおける神の恵みの支配を信じ、その救いの完成である主イエスの再臨を待ち望みつつ日々の祈りがささげられるなら、その人の魂は真に目覚めているのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまがふたたび来て、救いの恵みを完成させてくださることを私たちは望んでいます。眠り込まずに、目を覚ましてその日を待てるよう私たちの日々の生活を導いてきださい。私たちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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