Sola Gratia

聖霊降臨後最終主日 説教

十字架上の二人の犯罪人

33「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 34〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 35民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

イエスさまが十字架につけられたゴルゴタ(されこうべ)の丘には、三本の十字架が立っていました。イエスさまの左右にも犯罪人が十字架につけられていたのです。この犯罪人は、マタイ27章37、マルコ15章27によれば「強盗」でした。多くの学者はこの二人はローマからの独立を勝ちとるための熱心党の一味だったのではないかと考えています。彼らは、イエスさまの代りに恩赦によって釈放されたバラバ(ルカ23章18)もそうですが、強盗というような犯罪ではなく、正義のための確信犯という政治的な犯罪人だったのです。当時はそういう人々も「強盗」と呼んでいたのです。

その二人の強盗のうち、一人は十字架の下にいる人々と同じようにイエスさまをののしりました。《お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ》(37)。しかしもう一人の強盗は、違いました。彼はこう言ったのです。《お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない》(40-42)。自分の罪の当然の報いとして今十字架の苦しみを受けていると言っています。しかし、彼は自分の犯した犯罪に対する刑罰を受けていると認めたということではありません。彼が今受けていると感じているのは、神の怒り、神による裁きです。「お前は神をも恐れないのか」という言葉がそれを示しています。彼は今、自分が生ける神のみ前に立たされていると感じているのです。神によって、自分のやったことの報いを受けていると感じ、神を恐れているのです。おそらくこの十字架につけられるまで、彼はそんなことはまったく感じていなかっただろうと思います。もう一人の犯罪人と同じように、自分は罪など犯していないと思い、自分を捕え十字架につけて殺す者たちへの憎しみで満たされていたことでしょう。

ところが今、十字架の上で彼は、神を恐れる思いを抱くようになったのです。なぜそうなったのか。それを語っているのが、《お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに》(40)という言葉です。彼が神を恐れる思いを抱くようになったのは、「同じ刑罰を受けている」人がいることを知ったことによってです。彼らの真ん中で十字架につけられているイエスさまが自分たちと同じ刑罰を受けていることに、彼は衝撃を受けたのです。そのことは、《我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない》(41)という言葉から分かります。彼ら二人は同じような罪のために十字架につけられているのです。しかし「この方」は、悪いことは何もしていない、それなのに我々と同じ十字架の死という刑罰を受けている、そのことに彼は愕然としたのです。それは決して、イエスさまは我々とは違って十字架の死刑の判決を受けるに値するような犯罪を犯してはいないのに、ということではありません。人間が定める犯罪や刑罰に関して言えば、自分たちだって十字架につけられるようなことをしたわけではない、と彼は思っていたでしょう。しかし彼が今目を向けているのは神の裁きであり、神の罰です。神の罰としての十字架の死刑を、このイエスという方が我々と同じように受けている、そのことに彼は愕然とし、そこに神を恐れる思いが生まれたのです。

そこで決定的な意味を持ったのが、《父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです》(34)という言葉でしょう。十字架につけられつつこのように祈るイエスさまに、彼は神の前で何の罪もない方、神を心から父と呼ぶことができ、その父に自分を十字架につける者たちの罪の赦しをも願うことができるまことの神の子を見たのです。そしてその罪のないまことの神の子が、自分と同じ十字架の刑罰を受けておられる、その驚くべき事実に触れたとき、そこに神への深い恐れが生じたのです。それは、神をこわがるという恐れではありません。神が本当に生きてここに、自分の目の前におられる、その生ける神と出会う恐れです。その神への恐れの中で、それまでこれっぽっちも考えていなかったこと、自分が、自分の犯した罪の当然の報いとして十字架につけられていること、つまり自分は十字架につけられて死ななければならない罪人であることに気づかされたのです。

なお、この34節がカッコ〔 〕で囲まれているのは、この節は早期に加筆されたものだという印です。しかし、この言葉はイエスさまの赦しの愛と十字架の恵みを正確に表すものであり、聖書本文であると認められています。

自分のやったことの報いとして十字架につけられている、その自分と同じ十字架に、何の罪もない神の子である主イエスがついておられる、自分が罪の報いとして受けなければならない苦しみと死を、罪のない神の子が共に引き受け、味わっておられるのです。その事実に触れた彼は、《イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください》(42)と願うことができたのです。自分は罪に対する当然の報いとして十字架につけられるしかない者であり、救いを願うことなどとうていできない者だけれども、その自分と同じ刑罰を受けてくださっている神の子イエスさまに、「私を思い出してください」と願うことができる、その一筋の希望の道が自分の前に開かれていることを彼はこの十字架の上で見出したのです。

イエスさまは彼のこの願いを受けて、《はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる》(43)と答えられました。「楽園にいる」という約束は、イエスさまが実現する罪の赦しの恵みにあずかり、神のもとでの祝福が回復されることを意味しているのです。この御言葉で決定的に大事なのは、「わたしと一緒に」ということです。聖書が語る救いは、死んで「天国」という良い所に行くことではなくて、主イエス・キリストと共にいる者とされることです。その救いをイエスさまは彼に約束してくださったのです。私はあなたのことをちゃんと覚えている。あなたが十字架につけられて殺される今日、私はあなたと共にいて、あなたのすべての罪の赦しを父である神に祈り、父はその恵みをあなたに与えてくださるのだ、と宣言してくださったのです。

この二人目の人に起ったことは誰にでも起るのです。すでにイエスさまを信じる信仰者となった人たちそれぞれに起ったのだし、今この礼拝に集っている私たち一人一人が皆、この出来事へと招かれているのです。

彼は別に、一人目と違って善良だったわけではありません。同じ罪人です。そして彼も自分の罪を自覚して反省していたわけではありません。しかし彼は、罪の結果である十字架の苦しみの中で、自分と同じ十字架にかかっているイエスさまに出会ったのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」というイエスさまの祈りを聞きました。何の罪もないまことの神の子が、自分と一緒に十字架の苦しみと死の淵におられることを知ったのです。それによって彼は神を恐れる思いを与えられました。そのことによって彼は、自分の罪を知りました。自分が十字架にかかって死ななければならない罪人であることが初めて分かったのです。つまり悔い改めを与えられたのです。そしてそこに、《イエスよ、あなたがもう一度来られ、御国を完成なさる時に、私を思い出してください》(口語訳聖書の23章42節)と願うことができる信仰が与えられたのです。そしてその信仰の告白に対してイエスさまが、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」、あなたは私が実現する罪の赦しの恵みにあずかり、私と共にいる者となるのだ、「あなたは私と一緒にいる者だ」という救いを宣言してくださったのです。そのことを今日は覚えたいと思います。

祈りましょう。天の父なる神さま、御子イエスさまは十字架の苦しみの中ですべての人の罪の赦しを実現してくださいました。私たちがその恵みの御業に応えて、罪の赦しの恵みにあずかり、あなたの祝福のもとで生涯を歩めますように。救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン