Sola Gratia

聖霊降臨後第23主日 説教

神殿の崩壊を予告

5ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。 6「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」

7そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」 8イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。 9戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」 10そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。 11そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。 12しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。 13それはあなたがたにとって証しをする機会となる。 14だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。 15どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。 16あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。 17また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。 18しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。 19忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

《ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、・・・》(5)。当時のエルサレム神殿は、ユダヤの歴史の中でも最も豪華な姿を見せていたそうです。クリスマス物語でよく知られるヘロデ大王が延べ何十万人という人手を用いて、エルサレム神殿の大改築を行いました。その工事は、ヘロデ大王が死んでもなお続けられ、イエスさまがエルサレムに来たとき、《この神殿は建てるのに四十六年もかかった》(ヨハネ2章20)と言われています。

その建物の美しい姿を見ながら、人びとはその素晴らしさについて語り合い、イエスさまにも語りかけたのでした。「先生、すばらしい神殿じゃないですか」。しかし、イエスさまは言います。《あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る》(6)。要するに、「この神殿は徹底的に崩れる」と言ったのです。

このイエスさまの予告は、それから約40年後、紀元70年に現実のこととなりました。ユダヤ人がローマ帝国に反乱を起こし、激しく抵抗を続けたが、ついに敗れ、この神殿は跡形もなく破壊されました。その「見事な石」は、今もユダヤ教徒が祈りに集まる「嘆きの壁」に見ることができます。

エルサレムの神殿は以前にも破壊されたことがあったし、人間の造ったものは必ず崩れますから、イエスさまの神殿崩壊の予告は、あり得ない話ではありません。しかし、当時のユダヤ人にとって、神殿が壊れ、そこでの礼拝がなくなるということは、自分たちの信仰、文化、社会の崩壊を象徴するようなことであり、世界の終わりを予感させるようなことであったのです。

そこで人びとはイエスさまに尋ねます。《先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか》(7)。ところがイエスさまは、直接には彼らの問いに答えません。ただ、《惑わされないように気をつけなさい》(8)と応えます。その時には、偽キリストが出現し、戦争や暴動が起こるからです。こういう恐ろしい言葉を聞くと、私たちは、こういう恐ろしいことが世の終わり、終末のしるしだと思ってしまうかもしれません。しかしイエスさまが言ったことは、逆です。《戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである》(9)。

ここには「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない」という言葉があり、そして、「こういうことがまず起こるに決まっている」と言われています。戦争も暴動も、地震も飢饉も疫病も、人災・天災の別を問わず、こういう悲しいことは、いやでも、避けがたく、起こらざるを得ません。もちろん私たちは、戦争が起こらないように努力すべきです。けれども、イエスさまははっきりと、戦争が止むことはないと言います。

エルサレム神殿の崩壊など自分にとってはどうでもいいと思うかもしれません。でも、もしも、それくらい大きなことが自分の身近で起こったら、やはり大騒ぎするでしょう。戦争とか、暴動とか、さらに11節以下に語られる、地震とか、飢饉とか、疫病とか。これらのことがひとつでも自分に関係あることとして、起こったら、私たちはおびえるし、惑わされるだろうと思います。

私たちはなぜ惑わされるのでしょうか。人のわざに目を奪われているからです。私たちは、人のわざを積み重ねて、もうこれで安心だと言えるものを探し求めて、それにすがります。けれども、神殿が崩れ、戦争が起こります。大きな地震が来ますし、想定外の事故が発生します。そうすると、営々と積み重ねてきた人のわざが一瞬にして崩れます。すべてが無駄であったかとむなしい思いまになるでしょう。それで、イエスさまはそういう目に見えることに「惑わされるな」と言っているのです。

イエスさまは、終わりの日には天にも地にも恐ろしい現象が現れることを語った次に、終わりの日の前に弟子たちの身に起こることを語りました。それは、「わたしの名のために」イエスさまに従う者たちに加えられる迫害です。《しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる》(12-13)。これは、「あなたがたが迫害に耐えているという事実が、結果として証しになる」ということです。ですから、こういう言葉を付け加えたのです。《だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである》(14-15)。イエスさまが聖霊を通して働いていてくださる、とい言うのです。それがイエスさまが生きて共に歩んでくださる証しです。私たちは、このイエスさまに励まされ、慰められつつ、希望ある忍耐をもって福音がすべての人に届くよう祈りを熱くするものでありたいと思います。

イエスさまは、この世界が滅びることはないから安心しろと言ったのではなく、《天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない》(33)と言ったのです。「天地は滅びる」けれども、滅びないものがたったひとつだけある。「わたしの言葉」です。私たちはイエスさまの御言葉に寄って立つのです。

神殿の石がひとつ残らず崩されても、戦争や暴動が起こっても、また、迫害によって《あなたがたは・・・中には殺される者もいる》(16)としても、《しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない》(18)。あなたがたの髪の毛の一本も決して損なわれないと言うのです。たとえ殺されたとしても、なお髪の毛の一本までも、神が数え、守ってくださる。このイエスさまの言葉が滅びないので、私たちも滅びないのです。

神殿の石がひとつも積み残されることなく崩れる時にも、イエスさまの十字架の死からの復活において示された神の愛に揺らぐところはありません。まさしく神は、イエスさまの髪の毛一本も損なわれることのないように守ってくださったのです。このお方の存在に触れて、私たちも、神の愛を知りました。その神の愛に生かされている私たちの髪の毛一本といえども、失われることはないのです。その意味で、イエスさまと、私たちの存在が深く重なってきます。私たちが生きているということが、神の愛の証しになるのです。まさにここに、私たち教会の、伝道の使命があるのです。

イエスさまは最後に、《忍耐によって、あなたがたは命を勝ち取りなさい》(19)と言います。この「忍耐」というギリシア語には「踏みとどまる」という意味があります。おろおろしないで、踏みとどまる。信じて待つということです。

どうして踏みとどまることができるのでしょうか。それは未来を見ているから踏みとどまれるのです。最後の勝利は主イエスさまのものであると知っているから踏みとどまれるのです。最後は全能の父なる神のもとに、万物が帰趨することを知っているから希望を持つことができるのです。

聖書で言う忍耐は、単なる我慢ではありません。聖書で言う忍耐には、希望があります。やがて主イエスさまが来てくださる、やがて私たちも神の国に行くという希望を信じながら、この地上を生きることができるのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまの復活において私たちに対するあなたの愛と信実を示してくださったことに感謝します。この世のさまざまな苦しみの中にも救いの約束を信じて、信仰と希望と愛のうちに歩んで行けますように。御子主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン