Sola Gratia

聖霊降臨後第22主日 説教

死者の復活について

27さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。 28「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 29ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。 30次男、 31三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。 32最後にその女も死にました。 33すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」 34イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、 35次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。 36この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。 37死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。 38神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

イエスさまがエルサレムに到着して、毎日神殿の境内で人々に教えていると、サドカイ派の人々が来て、イエスさまに問いかけました。

サドカイ派は、ファリサイ派と並んで、当時のユダヤ教を二分していた勢力ですが、このグループは大祭司をはじめ祭司たちを中心とした特権階級の人々のグループです。サドカイ派の特徴は、旧約聖書の中でも最初の五つ、つまり創世記から申命記までの「モーセ五書」と呼ばれる部分だけを神の啓示と認め、そこに書かれていることだけを信仰の規範とすることです。そのために、ファリサイ派との間にはさまざまな違いが生じていました。その一つが、「復活があるかどうか」という問題でした。ここで言う「復活」とは、死んだ人が生き返るという奇跡があり得るかどうかということではありません。今のこの世が終わる時に、死者が復活して新しい命と体を与えられて、「新しい世、来世」を生きるということがあるのかという問題です。

旧約聖書には、「来世」の存在を示す言葉はあまりなくて、旧約の中でも比較的新しく書かれた書物に、それを臭わせるような箇所がいくつかあるだけです。ファリサイ派は、それらの箇所を手掛りに、来世における復活の命があると教えていました。他方、サドカイ派は復活を否定していました。モーセ五書には来世における新しい命を示すような言葉はないからです。彼らの信仰は、この世を生きている間のことだけに関心を持ち、死んだ後のことなどは考えない、徹底した現世中心主義です。

そういうサドカイ派の人々がイエスさまのもとに来て、復活して新しい世、来世を生きるなどということはないという主張を、イエスさまにも認めさせようとします。そのために彼らが持ち出したのが、モーセによって与えられた律法の中に定められている結婚の掟でした。《ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない》(28)。この掟は申命記第25章5節以下にあります。イスラエルの人々にとって、跡継ぎが与えられ、家系が存続することは、神の民の一員として歩み続けることができるということであり、それが神の祝福と考えられたのです。そのゆえ、跡継ぎを得て家系を存続させることがとても大事であり、そのために、子が生まれずに死んだ兄に代って弟が兄嫁を妻とし、生まれた子供に兄の家系を継がせるべきことが定められていたのです。サドカイ派の人々は、この律法の掟のゆえに、復活と来世の存在とを否定します。

彼らは否定する理由として一つの例を持ち出します。七人の兄弟が長男から始まって順番に一人の女性を妻とし、結局誰も子供をもうけずに死んでしまう、という例です。もしこの人たちが復活するなら、この女性は誰の妻になるのか、この人には七人も夫がいることになりますが、そのようなことは律法で許されていません。

私たちの間にも配偶者に死に別れて別の人と再婚することはあります。復活したら、どちらの人が自分の夫あるいは妻となるのかという問いです。

七人の男と結婚した女性は誰の妻となるのかという問いに対して、イエスさまはこう答えました。《この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない》(34-35)。さらに付け加えて、《この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである》(36)と言います。つまり、復活というのは、私たちが今地上を生きているこの体と心の有り様のままでもう一度生きる者となることではなくて、神の子であるイエスさまが復活して今も生きておられる、その天使に等しい姿と同じ者とされることなのです。この地上での夫婦の関係がそのまま復活へと移動することはありません。復活においては、地上を生きる私たちの命と体が完成されるのです。地上の事柄、問題、苦しみや悲しみのすべてから完全に解放されて、永遠の命を生きる者となる、それが世の終わりに与えられる復活です。復活を信じるとは、それらの問題のすべてを解消して私たちをまったく新しくし、イエスさまと共に永遠の命を生きる者として完成してくださる神のみ力を信じることなのです。

イエスさまは、復活するとはどういうことかを語ったあとさらに、死者が復活することそのものを語ります。そのことが聖書に、しかもサドカイ派が信仰の基準としているモーセ五書に、はっきりと語られていることを示します。《死者が復活することは、モーセも、『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している》(37)。「柴」の箇所というのは、出エジプト記第3章の始めの所、モーセが、燃えているのに燃え尽きることのない柴の間から主なる神と出会った、という箇所です。イエスさまは、この御名の中にすでに、「神が死者を復活させる方であることが示されているのだと言います。

「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という神の言葉がどうして「死者が復活すること」を語っているのでしょうか。それを解くカギは、《神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ》(38a)という言葉です。生きている者の神が、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言うことは、とっくの昔に死んだはずのアブラハムもイサクもヤコブも、神にとっては生きている者であると宣言していることだからです。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神ですから、その神が「わたしはこの人の神である」と言うなら、その人は生きるのです。そのことを語っているのが、《すべての人は、神によって生きているからである》(38b)という言葉です。人は、「生きている者の神」との関係、交わりにおいてこそ本当に生きることができる、逆に言えば、「生きている者の神」との交わりなしには本当に生きることができない。そうイエスさまは言っているのです。

生まれつきの私たちは、神の方を向いて生きてはいません。神の方を向いていないことが、聖書では「罪」と呼ばれています。罪とは、神をも隣人をも、愛することができず、むしろ憎み傷つけてしまうことです。そのように罪に対して生きている私たちが、神に対して生きる者とされ、神との関係において、その救いの恵みにあずかって生きる者とされることが、聖書の教える「救い」です。私たちにその救いを与えるために、神の独り子であるイエス・キリストが十字架にかかって死に、復活してくださったのです。

「生きている者の神」は、私たち一人一人の名を呼んで、「わたしはあなたの神である」と宣言することによって、新しい命を与えてくださいます。その神は、イエスさまをもはや死ぬことのない者として復活させ、そのイエスさまの復活の命に私たちをもあずからせ、神の子として生かしてくださる神なのです。その神を信じることによって、私たちは、神との関係において生きる者となり、復活の命を生きる者とされるのです。この新しい命、復活の命にあずかってこの世を生きる者とされている者は、肉体の死の彼方に、復活して来世を生きる新しい命が約束されていることを信じ、そこに希望を置いて生きることができるのです。「体のよみがえり」は、そこでどんな現象が起るのかと考えていても分かりません。イエスさまを復活させてくださった神が、「私はあなたの神である」と宣言してくださり、私たちにも神に対して生きる新しい命を与えてくださる、その神の恵みのみ力を信じることによってこそ、私たちは復活の希望に生きることができるのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまの生涯と聖書の解き明かしによって、復活の希望を示してくださったことを感謝します。私たちも「わたしはあなたの神である」という恵みの御言葉を信じて生き抜くことができますように。私たちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン