聖霊降臨後第19主日 説教
やもめと裁判官
- 2022年10月16日(日)
- 聖霊降臨後第19主日
- ルカ18章1~8
1イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。 2「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。 3ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。 4裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。 5しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」 6それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。 7まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。 8言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
《ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた》(1)。この裁判官は《不正な裁判官》(6)と言われています。その「不正な」の内容が、「神を畏れず人を人とも思わない」ということなのです。「畏れる」は「畏敬の念を抱く」という意味だけでなく、「恐しいと思う」という意味もあります。神を恐しいと思うとは、私たちがたとえすべての人々に自分の罪を隠しおおすことができたとしても、神はそれを見ていて、怒り、裁く、という感覚です。神を恐れることなく生きるところには、人を人とも思わない、隣人を尊重しない、傲慢な生き方が生まれるのです。逆に言えば、人を人として本当に尊重し、愛する生き方は、自分の思いと言葉と行動をいつも見ていて、罪に対しては怒る神を恐れる思いのある所にこそ生じるのです。
この町に《一人のやもめ》(2)がいました。夫に死に別れたやもめは聖書において、親のない子と並んで社会的弱者の代表です。地位も力も財産もない一人のやもめが、この裁判官のところに来ては、《相手を裁いて、わたしを守ってください》(3)と言っていたのです。「相手」とこのやもめの間にどんな争いがあったのかは分かりませんが、想像できるのは、この「相手」は社会的な地位もあり、富や力を持っているのだろうということです。このやもめは、そういう強い相手から自分を守ってくれるようにと裁判官に願ったのです。社会的弱者を守ることも裁判官の本来の役目だからです。しかも、《来ては・・・と言っていた》(3)とあるように、何度も何度も繰り返しやって来て願い続けたのです。裁判官は《しばらくの間は取り合おうとしなかった》(4)。彼はこのやもめの主張が正しいことを知りつつ、それを無視していたのです。彼はこの訴えを取り上げても自分に何の得にもならないし、むしろ地位も権力もある「相手」の肩を持っておいた方が得だと計算しているのです。それは裁判官にあるまじき罪であり不正です。しかしこの町でその不正を裁くべき人は彼自身ですから、彼を裁くことができる者はこの町にはもはやいないのです。
イエスさまはこのようなたとえ話を何のために語ったのでしょうか。それは《気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため》(1)でした。イエスさまはこのやもめの姿に、気を落とさずに絶えず祈る者の姿を見ているのです。この世の現実はまことに厳しいものであり、祈ってもその現実がどうなるものでもない、と感じることがしばしばです。目に見える現実の重さに、私たちの祈りがおしつぶされ、信仰そのものが萎えてしまいそうになります。私たちが置かれているそのような状況をイエスさまは、神を恐れず人を人とも思わない裁判官の下にいるやもめの姿によって描いています。このやもめはそのような現実の中で、自分の正当な権利を守ってくれるようにと、気を落とさずに絶えず求め続けたのです。
彼女が求め続けたこと、それは「正しい裁きが行われること」です。地位や権力、お金がある者たちだけが守られ幸福になるのではなく、弱い者、貧しい者たちの正当な権利が守られ、支えられる、そういう裁きが行われることです。この世に「神を恐れ、人を人として大切にする」正しい裁き、正しい支配が確立することをこのやもめは願い求めています。しかも、気を落とさずに絶えず求めていたのです。私たち信仰者も、同じことを願い、祈り求めています。神の支配とその正しい裁きが行われることを、祈り願いつつ私たちは生きているのです。この世の過酷な現実において、私たちが気を落とさずに絶えず祈り続けていくことができるのは、目に見える現実の背後で、神こそがこの世を支配していることを信じているからです。神の裁きと支配はすでに揺るぎなく確立している、そのことを信じているからこそ、その裁きと支配が目に見える仕方でも確立することを願い、祈ることができるのです。これは、17章の後半で語られていた、「神の国が来る」ということです。神の国とは「神の支配」という意味です。その神の国の到来を期待し、待っていた人々に、イエスさまは、《実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ》(21)と言って、ご自分がこの世に来たことによって神の国がすでに実現していることを示しました。その神の国は、イエスさまが多くの苦しみを受け、人々から排斥され、十字架につけられて殺され、そして復活したことによって実現しました。そのことを告げているのが「神の国の福音」です。目に見える現実においてはあいかわらず、神を恐れず人を人とも思わないような力が支配しています。その中で、信仰者は、イエスさまによってすでに実現している目に見えない神の国を信じて、いまだ完成していない神の国を待ち望みつつ忍耐して生きるのです。その信仰の歩みにおいては、気を落とさずに絶えず祈ることが大切なのです。
このようにきょうの箇所のこの「祈り」についての教えは、17章後半の「神の国が来る」という話とつながっています。この文脈を捉えることによってこそ、このたとえにおいて、あの不正な裁判官が気を変えて、やもめのために裁判をしてやろうと思ったことの意味が理解できるのです。彼はこう言っています。《しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない》(5)。このように語った上でイエスさまはこう言いました。《それから、主は言われた。『この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる』》(6)。だから、それを信じて気を落とさずに絶えず祈り続けなさい、ということをイエスさまはこのたとえによって語っているのです。不正な裁判官と神とが重なるのは、「裁きを行う」という点においてのみです。ここには、どうしたら神に祈りを聞いてもらえるのか、正しい裁きを、つまり神の国を早くもたらしてもらうためにはどのように祈ったらよいのか、という「祈り方」が語られているのではなくて、神は必ず正しい裁きを行い、神の国を完成させてくださる、そのことを信じて、神を恐れず人を人とも思わないような力が支配している現実の中でも、気を落とさずに絶えず祈りなさい、という勧めが語られているのであって、その模範としてこのやもめの姿が描かれているのです。
最後に《しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか》(8)とあります。「人の子が来るとき」という言葉から、ここが17章後半の「神の国が来る」という話の続きであることが分かります。「人の子」とはイエスさまのことです。その人の子イエスさまが、もう一度この世に来られる。その時に、救われる者と滅びる者、命を保つ者とそれを失う者とがはっきりと分けられる、つまり裁きが行われる、ということが語られていました。それが、きょうの箇所に語られている「神が裁いてくださる時」です。神の国の完成の時です。そのとき、人の子イエスさまは「果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と問いかけているのです。その「信仰」とは、イエスさまがもう一度来てくださることによる神の国の完成を信じて、この世の目に見える現実によって気を落とさずに絶えず祈ることです。そのような祈りに生きることこそ、私たちの信仰のあるべき姿なのです。
きょうの箇所のたとえ話は、単にあきらめずに祈り続けよという教えであると言うよりも、イエスさまによって到来した神の国を信じ、そのイエスさまがもう一度来てくださることによってそれが完成することを待ち望みつつ祈る信仰を教えています。私たちは、イエスさまが来られるとき、そのような信仰に生きている者、そのような祈りに生きている者として見いだしていただけるでしょうか。イエスさまはそれを私たちに問うておられるのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまが神の愛による支配を地上にもたらしてくださったことを感謝します。神の愛のご支配が完成することを待ち望みつつ、気を落さずに祈り続けられるよう私たちに力を与えてください。私たちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン