聖霊降臨後第18主日 説教
感謝するサマリア人
- 2022年10月9日(日)
- 聖霊降臨後第18主日
- ルカ17章11~19
11イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。 12ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、 13声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。 14イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。 15その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 16そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。 17そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 18この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 19それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
イエスさまの一行が《エルサレムへ上る旅の途中、サマリアとガリラヤの間を通られた》(11)とき、《ある村に入ると、十人の人たちが出迎え》(12)ました。彼らは《重い皮膚病を患っている人たち》(12)でした。彼らは《遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った》(13)のです。
新共同訳聖書で「重い皮膚病」と訳された病気は、以前は原文通り「らい病」と訳されていました。それが差別語だとして訳し替えられたのです。
この病気については様々な決まり事がありました。レビ記13章45-46節の規定では、この病気にかかった人は、《「わたしは汚れた者です」と呼ばわらねばならない》、他の人にその汚れが移らないように、常に周囲の人に、「私に近付かないでください」と言わなければならないのです。そして《独りで宿営の外に住まねばならない》、一般の人々から隔離されて暮らさなければならないというのです。この病気は、体の苦しみだけでなく、精神的にも大きな苦しみをもたらすものでした。この病気は、罪の現れであり、神の罰として不治の病と見なされたためです。ユダヤ教では、死人を生き返らせることと、この病気の人を清めることは神にだけできることとされていたのです。
彼らは人々から汚れた者と見なされ、忌み嫌われてきました。しかし、イエスさまだけは憐れんでくださる。私たちを見捨てない。彼らはそう信じたからこそ、遠くから《イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください》(13)と大声で叫んだのです。
彼らがそう信じたのは間違いではありませんでした。イエスさまがその病をいやした前例が、ルカ5章に記されています。そんなイエスさまの話をこの十人も伝え聞いていたのでしょう。
するとイエスさまは彼らにこう言われました。《祭司たちのところに行って、体を見せなさい》(14)。医者ではなく、祭司です。この病気は汚れた病とされていて、治った場合は「治った」と言う代わりに「清められた」と言われます。汚れている人は、神殿や会堂で礼拝できません。ですから治った場合は、祭司に体を見せ、清くなったという証明をしてもらう必要がありました。その手続きを経て、いやされた人は社会に戻ることができるのです。
しかし、この十人はまだ癒されてはいません。にもかかわらず、イエスさまは彼らに、祭司たちのところへ行けと命じました。これは何を意味しているのでしょうか。「信じなさい」ということです。
彼らは憐れんでくださると信じたのなら、イエスさまに信頼して、その御言葉に従って、具体的な一歩を踏み出すことが大事です。そして、実際彼らはそうしたのです。彼らはまだいやされていないにもかかわらず、祭司たちのところに向かいました。まだイエスさまの憐れみは目に見えません。にもかかわらず、イエスさまの御言葉に従って、彼らは祭司たちのところに向かったのです。そして、《彼らは、そこへ行く途中で清くされた》(14)。まさに、彼らが信じたとおりになりました。
さて、これがただいやしの奇跡の話ならば、この話は14節で完結です。ところが、今日の聖書箇所には続きがあります。本当に重要なメッセージは15節以下にあるようです。話はこのように続きます。
《その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。『清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか』》(15-18)。
イエスさまは《ほかの九人はどこにいるのか》(17)と言っていますが、彼らは御言葉に従って出発したのであって、今、恐らくは祭司たちのところに行く途中のはずです。それなのに、なぜ一人は帰ってきたのでしょうか。
彼は《大声で神を賛美しながら戻って来た》(15)と書かれています。イエスさまも言っています。《この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか》(18)。このサマリア人を際立たせているのは、ただ彼が戻ってきたということだけではありません。彼は大声で神を賛美していたことです。
彼らの喜びが病気がいやされたことについての喜び、苦しみから解放されたことについての喜びであるならば、その喜びをもって行うべきことは、イエスさまが言われたように、祭司に体を見せ、正規の手続きを経て社会復帰することです。そして、実際に彼らはそうしました。
しかし、この一人のサマリア人は違っていました。彼は明らかに、ただ病気がいやされたこと、苦しみから解放されたことを喜んでいたのではありません。すべての人が自分たちを忌み嫌っても、イエスさまだけは、必ず憐れんでくださる。そう信じて「憐れんでください」と叫んだのです。
そして、実際、イエスさまは彼らを見捨てることなく、憐れんでくださいました。「祭司たちのところに行きなさい」とは、イエスさまの憐れみの言葉だったのです。彼らは初めからイエスさまの憐れみの中にいたのです。このサマリア人の喜びはそこにあったのでしょう。だから、憐れんでくださったイエスさまのもとに帰って行ったのです。
それだけではありません。いやしは明らかに奇跡として起こりました。そこに現れたのは神のいやしです。イエスさまの憐れみを通して彼が出会ったのは、神の憐れみだったのです。彼がまだ苦しみの中にあったときから、すでに神の憐れみの内にあったのです。
それは、彼にとっては大きな驚きであったに違いありません。重い皮膚病の人は、いかなる形における礼拝にも参加することはできないのです。汚れた者とされているからです。彼は、自分は汚れた者であって、神から遠ざけられているのだ、神から忌み嫌われているのだ、とずっと思ってきたに違いありません。そんな彼が、イエスさまを通して、神に愛されていることを知りました。彼は神の憐れみの内にあったのです。重い皮膚病にかかり、汚れた者とされていたとき、すでに神の憐れみの御業は始まっていたのです。
それは、彼にとって病気がいやされたこと自体よりも重大なことでした。ですから、彼は社会復帰のための手続きをすることを後回しにして、イエスさまのもとに戻って来て、礼拝し、神を賛美することを最優先させたのです。イエスさまが《あなたの信仰》(19)と言っているのは、そのことです。
祭司のところまで行って体を見せ、いやされていることを確認してもらってから、清めの儀式を行うには時間がかかります。レビ記の規定では確認に数週間、清めの儀式に一週間。ですから、この人は祭司のところへ行く途中で、体がきれいになっていて、自分がいやされたことを知り、そこからすぐに戻ってきて《イエスの足もとにひれ伏して感謝した》(16)のでしょう。
イエスさまは足もとにひれ伏しているこのサマリア人をいつくしみ、《立ち上がって、行きなさい》とはげまします。それだけでなく、《あなたの信仰があなたを救った》(19)と祝福します。いやされたのは十人でした。しかし、救いの宣言を聞いたのは、この一人でした。確かにこの人は救われました。そして、それは病気がいやされること以上のことでした。
なぜこの話は14節で終わっていないのか。それは、イエスさまのみもとで感謝と喜びに溢れて神を賛美しているこの人の姿こそ、まさに救われた人の姿だからです。そして、彼の立っているところに、私たちもまた招かれているのです。私たちもまたイエスさまを通して神の憐れみを知り、週毎に神を賛美するためにイエスさまのみもとに戻ってくるのです。そして、イエスさまの御言葉によって再びこの世に送り出されるのです。イエスさまは言います。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子の生涯を通して、あなたの愛の御心を明らかに示してくださったことに感謝します。あのサマリア人にならって私たちもあなたへの感謝と喜びをもって信仰の道を歩み進めますようお導きください。救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン