Sola Gratia

聖霊降臨後第9主日 説教

目を覚まして待つ

「32小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。 33自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。 34あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

35「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。 36主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。 37主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。 38主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。 39このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。 40あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

《小さな群れよ、恐れるな》(32)。イエスさまは繰り返し私たちにこう語っています。今日の箇所のすぐ前、7節でも《恐れるな》と語りかけていますし、11節では《心配してはならない》と呼びかけています。それは、イエスさまが何度でも語りかけ、新たに恵みの中に立たせてくれなければ、すぐに教会の中を覆ってしまう「恐れ」があったからです。そしてまた、教会がこの「恐れ」を克服するために、間違った手だてを講じることがしばしばあったからです。私たちはしばしば、イエスさまを見つめることを忘れて、独自に対策を立てようとします。自分たちでこの不安に立ち向かい、恐れを克服しようとします。先週の箇所(12章13~21)では、金持ちが大きな倉を建て、自分の収穫をみんなしまいこんでいる姿が描かれていました。その姿は私たちの常識から言えば、堅実で、まっとうな歩みに思えます。けれども、神の眼差しから見ると、それは《愚かな者よ》(20)と厳しく言い渡されるような人生でしかありません。

そこには決定的に大事なものが抜け落ちているのです。それは、私たちが何を食べようか、何を着ようかとあれこれ思い悩む、それらすべてに先だって私たちの歩みについて心を配っていてくださる父なる神を見つめることです。神がすべてに先だって、私たちの毎日の歩みについて、日々の生活について心を配っておられる。そのことにこそ、気づいてほしい。それがイエスさまの願いであり、呼びかけです。

私たちは「何を食べようか」、「何を着ようか」と心を煩わせています。しかし、これがなければすべては虚しい自分自身の命そのもの、自分の体そのものについて、どれだけ意識しているでしょうか。今晩にでも取り去られるかも分からない、命そのもののもろさ、危うさについてどれだけ意識しているでしょうか。今日も生きていることが当たり前で、明日も生きているに決まっていると勝手に思いこんでいるところで成り立っている、実に危なっかしい毎日が、私たちの生活です。

この世の富について私たちが思い煩うことなど比べものにならない、本当に豊かな宝が、私たちの前に差し出されているのです。イエスさまは、すべてに先立ってあなたに心を向け、あなたに心を配り、今日も命を与え、生かしてくださっている父なる神の顧み、慈しみの眼差しをこそ見つめなさいと招いているのです。《何を食べようか、何を飲もうか》(29)と追い求めるのではなく、《ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる》(31)のです。

そしてこの「御国が来ますよう」にという私たちの願いに先立って、父なる神の御心はすでにはっきりと決まってしているのです。《小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる》(32)。御国を私たちにくださること、私たちを御国の世継ぎとすること、それは父なる神が恵みのうちにすでに決めていることです。「あなたがたは、わたしの恵みの支配の中で生きてほしい。この恵みの中を歩んでほしい。わたしがあなたがたに与えたいと願っているこの恵みに、あなたがたも心を開いてほしい」。私たちが願うより先に、神がみ恵みのうちに、こう願っているのです。

神の国に生きる心、《神の前に豊か》(21)になることの幸い、神の恵みの支配を生きる喜び、そこに留まり続けることです。私たちの「恐れ」は、本当に恐れるべきお方を見失い、その恵みの支配を忘れるところから湧き上がってきます。そんな私たちをイエスさまは《信仰の薄い者たち》(28)と呼びます。しかし、その私たちに「恐れるな」と今日も語りかけ、恐れを除き去るために、神はその独り子を十字架に上らせたのです。「恐れるな」。これはまさにイエスさまの全存在がかかったお言葉です。この世でもっとも恐れられている死の恐怖を、イエスさまは一手に引き受けてくださいました。それほどに、私たちは、神の眼差しの中で、尊い者、価高き者として受け止められているのです。「喜んで御国をくださる」父なる神の御心の前にもう一度立たせてくださるのです。この世の富ではなく、父なる神に心をつなぐこと、それが本当に恐れを克服する道です。この世の富についての思い煩いに代えて、神の恵みの支配を、本当の宝、本当の富とできる幸いがここにあるのです。この豊かな恵みに招いてくださる神に心をつなぐ時こそ、小さな群れの恐れは、取り除かれます。

35節からの新しい段落は、私たちが待ち望む神の御国が来る時、すなわちキリストが再臨する時を、どのようにして迎えたら良いかということが、たとえ話によって語られています。40節に《あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである》とありますが、この「人の子」というのは、再臨するキリストを言い表す用語です。

主人が婚宴に出かけます。この主人はイエスさまです。そして、留守を任されている僕たちが、私たちです。そこで留守を預かる僕たちがなすべきことは何か。主人は、《腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい》(35)と言いつけます。帯をしっかりと締めて衣の裾をひきからげ、いつでも帰ってくるご主人をお迎えできるように備えていなさいというのです。ともし火をともし、主人が戻ってくる時に暗がりを明るく照らすことができるようにしておきなさいというのです。

ところが主人はいつ帰ってくるのか分かりません。この当時の結婚のお祝いは数日間にわたって続いたものです。いつ主人が帰ってくるのか皆目見当もつかないという状況です。けれども、この主人はいつかは分からないけれども、約束どおり必ず帰って来くのです。主人は必ず帰ってくる。そのことに望みを置き、《目を覚ましている・・・僕たちは幸いだ》(38)。

このようにして、主人の留守の間、僕たちが目を覚まして持ちこたえたなら、彼らはどんな幸いに恵まれると言のか。《はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる》(37)と約束されます。帰ってきた主人の驚くべき姿が語られています。これはみんな、本来僕がなすべき務めです。僕がなすべき務めを主人が行ってくださるのです。「わたしが留守の間、よくこの家を守ってくれた。さあ、あなたたちを豊かな食卓に着かせよう。わたしと一緒に喜んでくれ」。ここで僕たちが与かる食卓は、主人がこの婚宴の食卓の豊かな喜びを携えて、自分の家に持ち帰ったものです。他でもない、家を預かっていた僕たちと、この喜びを分かち合うためです。むしろ初めから、僕たちとこの喜びを分かち合うことを楽しみにして、婚宴に出かけていったのです。私たちの主人であるイエスさまは、十字架の上で死に、甦った後、父なる神のもとへ昇られました。それは、また再び来て、僕である私たちにも、父の御許での喜びを分かち合うためにほかなりません。父の御許での喜びと栄光の中へと私たちを招き入れるためにこそ、主人は婚宴に出かけていったのです。

イエスさまの来られる時を、目を覚まして待ち望むということは、私たちに与えられているイエスさまによる救いを重く受け止め、イエスさまの十字架の下に立ち続けるということです。イエスさまを本当に私たちの主とし続けること、このお方の与えてくださる御国の喜びに生き続ける、留まり続けることです。イエスさまの恵みの支配の下におかれ、イエスさまが再び来てくださる時を待ち望みつつ、この世にあってまことの主を証しする御言葉のともし火を掲げ続ける、イエスさまの再び来てくださる時に備えて、《準備のできた民を主のために用意する》(1章17)。私たちはこんな光栄で、幸いな務めのために、今日も生かされ、用いていただいているのです。主を待ち望む教会、私たちのまことの姿がここにあります。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子をこの世に送り、十字架の死に引き渡されるほどに、私たちを愛し抜かれたあなたの愛に感謝します。イエスさまが再び来られる時まで、御言葉のともし火を掲げ続けることができますように。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン