Sola Gratia

聖霊降臨後第7主日 説教

祈るときには

1イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 2そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。

『父よ、/御名が崇められますように。/御国が来ますように。/3わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。/4わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。/わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

5また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。 6旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 7すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 8しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。 9そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 10だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 11あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 12また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 13このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

きょうの福音書は、冒頭に、《イエスはある所で祈っておられた》(1)とあります。イエスさまは、祈りの中で、神に《父よ》(ルカ10章21、22章42など)と呼びかけています。神を「父」と呼ぶことは、旧約聖書にもありましたが、それは神の威厳や力、慈愛、守り、導きといったことを表現するための譬えでした。しかし、イエスさまが「父よ」と祈るときには、それは、ご自分と神との間に父と子の深い信頼関係があることの表明だったのです。そのことを表しているのが、《アッバ(父よ)》(マルコ14章36)という言葉です。これは、小さな子供が父親を呼ぶ言葉です。イエスさまはそのような親しみを込めた言葉で神に呼びかけ、祈っていました、それはユダヤ人たちの常識からすると驚くべきことでした。弟子たちはイエスさまが神との間に持っている、父と子のような信頼と愛の交わりに驚き、あこがれて、《わたしたちにも祈りを教えてください》(1)と願ったのです。この願いに答えてイエスさまが、《祈るときには、こう言いなさい》(2)と教えてくださったのが、「主の祈り」です。この祈りはイエスさまご自身の祈りです。この祈りを教えることによってイエスさまは弟子たちを、そして私たちを、イエスさまの祈りの世界へと招いているのです。イエスさまと共に「主の祈り」を祈ることによって、私たちはイエスさまと共に神との新しい関係、すなわち、父と子としての信頼と愛の関係に入ることができるのです。したがって、この祈りは私たちキリストの民にとって最も基本的な重要な祈りとなります。

イエスさまは、祈ることを教え、祈りの言葉を与えただけでなく、それを補足するように、一つのたとえ話を語りました。

真夜中に、友達の家を訪ねて、《パンを三つ貸してください》(5)と願うという譬えです。別の友達が、旅行中に急に自分の家に立ち寄ったが、その人に食べさせるものが家になかったからです。当時の旅行は文字通り命がけのことであり、空腹や渇きによって行き倒れてしまう人が多かったのです。ですから客人をもてなすというのは、歓迎してごちそうすると言うよりも、その人の命を助けるという意味を持っていました。ところが家にはあいにくパンがまったくない。そこで、近くにいる友人の家に助けを求めていきました。

しかし、もう真夜中です。友人の家の戸口をドンドンとたたき、「パンを三つ貸してください。旅行中の友達に出すものがないのです」と大声で叫んだらどうなるか。《すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』》(7)。

イエスさまがこの譬えによって語ろうとしていることは次の8節にあります。《しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう》(8)。確かにこんな迷惑なことは、たとえ友達でも断られるだろう。しかし、しつように頼めば、結局は起きてきて必要なものを与えてくれるのだ。同じようなたとえ話に「やもめと裁判官」(18章1~8)があります。イエスさまは、このような譬えで、どんなに困難なときでも、祈ることを諦めるな、止めるなと言っているのでしょう。

このような譬えを語った上で、イエスさまは、《そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる》(9)と言います。祈りにおける心構えを、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれると信じて祈るように、と教えたのです。

しかし、ここで私たちが神にしつこく祈り続けることによって、神もついに根負けして、これ以上面倒をかけられたくないから仕方なく聞いてくださるということなのか、私たちと神との関係はこのようなものなのかという疑問が湧いて来ます。またもう一つ、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるというのは本当だろうかという疑問です。祈り求めても叶えられない、ということを私たちは体験しているのではないでしょうか。

これらの疑問への答えは、《あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか》(11~12)です。親たる者、魚を欲しがる子供に蛇を与えたり、卵を欲しがるのにさそりを与えたりはしない。それを受けて、《このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている》(13)ともあります。「あなたがたは悪い者でありながらも」というのは、罪があり、欠け多く、弱さをかかえているあなたがた人間も、ということです。私たちは、神をないがしろにし、隣人を本当に愛することできずにいる罪人です。しかしそんな罪人である私たちも、自分の子供を愛しており、良い物を与えようとします。この言葉は、しつこく求めれば得られる、ということを語っているのではなくて、天の父である神がどれほど私たちを愛してくださっているのか、ということを語っているのです。

そして、ここで注目すべき大事なことは、《天の父は求める者に聖霊を与えてくださる》(13)と言われていることです。その聖霊が与えられると私たちはどうなるのでしょうか。それについてパウロは、ローマ8章14~15節で、《神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです》と言っています。聖霊を与えられることによって私たちは、神に向って「アッバ、父よ」と呼びかけることができる「神の子」とされるのです。天の父が、求める者に聖霊を与え、私たちとの間に、父と子の関係を築いてくださるのです。

私たちの祈りに応えて神が聖霊を与え、聖霊が私たちを御子イエスと結び合わせて、神との間に父と子という関係を、交わりを与えてくださるのです。それが、祈りにおいて与えられる恵みです。この恵みを信じて祈りなさい、とイエスさまは教えておられるのです。

「求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」というこの御言葉は、神が私たちの天の父となり、私たちを子として愛し、父が子に必要なものを与えて養い育てるように、私たちを育んでくださるという約束を語っているのです。私たちも、親は子に、その求めるものをできるだけ与えようとします。しかしそれは、何でも子供の言いなりになる、ということではありません。子供を本当に愛している親は、今この子に何が必要であるかを考え、必要なものを必要な時に与えようとします。子供が求めても、今はその時でないと考えれば、「だめ」と言って、我慢させます。そういう親こそが本当に子供を愛しているのです。私たち罪ある人間の親子関係においてさえそういうことであるならば、天の父なる神は私たちに、本当に必要なものを、必要な時に与えてくださるのです。「求めなさい」で始まる御言葉は、そのような父と子の愛の関係の中でこそ意味を持つのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまは御自分と父なる神であるあなたとの親密な交わりの中に私たちを招き入れてくださいました。私たちが聖霊の交わりの中に生きていける恵みを世に証していくことができますように。私たちの救い主、イエス・キリストによって祈ります。アーメン