聖霊降臨後第6主日 説教
マルタとマリア
- 2022年7月17日(日)
- 聖霊降臨後第6主日
- ルカ10章38~42
38一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 39彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 40マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 41主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 42しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
きょうの福音書は、イエスさま一行がエルサレムへと向かう旅の途上の出来事です。《一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった》(38)。イエスさまがその村を訪れるのは、初めてのことではありません。そこにはイエスさまが御言葉を宣べ伝えるために場所を提供してくれる家がありました。マリアとマルタという姉妹が住んでいる家です。
《するとマルタという女が、イエスを家に迎え入れた》(38)。もちろん、迎えたのはイエスさまだけではありません。弟子たちが同行しています。ですから、イエスさまを家に迎え入れるということは、実はとても大変なことです。食事の支度から宿泊の準備まで、なすべきことは山ほどあります。とにかく、人々に仕え、彼らの多くの必要を満たさなくてはならないのです。
しかし、マルタにとって、そこにいた多くの人々に仕えることは、イエスさまに仕えることに他なりませんでした。そして、イエスさまに仕え、イエスさまの必要を満たすために奉仕することは、マルタにとって何よりも大きな喜びであったに違いありません。それだからこそ、マルタは「イエスを家に迎え入れた」のです。恐らく何日も前から準備をしてきたのでしょう。イエスさまを迎えるために喜びに溢れていそいそと立ち働いているマルタです。
さて、そのように「イエスを家に迎え入れた」マルタだったのですが、その心の中に一つの変化が生じてきます。イエスさまの足もとに座って、その話に聞き入っているマリアのことが気になり始めます。人々の必要を満たすためになすべきことが山ほどあるのに、イエスさまに仕える働きを人に押しつけて、マリアが平気な顔をしてそこにいるのです。本当はマルタもイエスさまの話を聞きたいのです。ですから、よけいに心がいらだつのです。ついにマルタはイエスさまに訴えました。《主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください》(40)。
しかし、手伝おうとしないマリアの態度が問題であるならば、直接マリアに「ちょっとは手伝いなさいよ」と言えば済むことです。しかし、マルタはそうしませんでした。本当に物申したい相手は、マリアではなくてイエスさまだったのです。マルタは言いました、「何ともお思いになりませんか」。マルタはイエスさまに「何かを思って」欲しかったのです。マリアが「わたしだけ」にもてなしをさせていて、「わたしだけ」が大変な思いをしていることを、イエスさまにも少しは気に懸けて欲しかったようです。
マルタだけが大変な思いをしているときに、イエスさまは人々に話をしていました。当然のことながら、イエスさまの視線は、聴衆に向けられています。そのイエスさまの視線の先に、足もとで話を聞いているマリアもまたいます。一方、一人で立ち働いているマルタは、イエスさまの視界の外にいます。それはマルタにとって、とても悲しいこと、また、腹立たしいことであったに違いありません。「わたしだけ」が大変な思いをしているのに、イエスさまはぜんぜん気に懸けてくれないのです。
そんなマルタの訴えを聞いて、イエスさまは静かに口を開きました。《主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」》(41‐42)。
イエスさまが「マルタ、マルタ」と、名前を繰り返して呼んでいるところに、マルタに対するイエスさまの優しい思いやりが感じられます。
この後、22章にも同じように繰り返して名前を呼ばれる人がいます。イエスさまはシモン・ペトロにこう言います。《シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい》(ルカ22章31~32)。これはシモン・ペトロがイエスさまを見捨てて逃げていくことを予告した言葉です。しかし「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」とイエスさまは言います。
使徒言行録にも、同じように呼びかけられた人がいます。かつて教会の迫害者であったサウロ、すなわちパウロです。そのサウロがダマスコに向かう途中、光に照らされ、《サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか》(使徒9章4)と呼びかけるイエスさまのみ声を聞いたのでした。イエスさまは迫害者であるサウロのことをも気に掛けていたのです。
イエスさまは、「マルタ、マルタ」と呼んで、マルタの求めを叱責するのではなく、マルタの奉仕を受け入れながら、この状況でマルタに重要な事柄を教えようとされるのです。きょうの箇所で、イエスさまが一番気に懸けているのは、他ならぬマルタでしょう。イエスさまはマルタが「多くのことに思い悩み、心を乱している」ことをちゃんと見ていました。そんなマルタの心の状態を誰よりも心配し、気に懸けていたのです。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」。これは、イエスさまをもてなすために給仕のことでいっしょうけんめいになっているマルタを気遣いながらも、本当に必要なことは何かということについて、マルタのしていることとマリアのしていることと比べたら、マリアは良い方を選んだのだとはっきり言っています。そして最後に「それを取り上げてはならない」と言って、イエスさまは、マルタがイエスさまに「妹に手伝ってくれるように言ってください」という要求に対して、はっきりと「否」と言っているのです。それが「マリアにとって」必要だからです。そして、それは「マルタにとって」も必要なただ一つのことでもあったはずです。
マルタの関心は、「多くのこと」に向かっていました。それはイエスさまにとっても、共にいた人々にとっても必要と思われることでした。その多くの必要を満たすために、彼女は汲々としていました。「多くのこと」に向かう彼女の心は散り散りになっていました。しかし、イエスさまは、そんなマルタにとって「必要なことはただ一つ」と言いました。
マルタが一生懸命もてなしをしていたこと自体が責められているわけではありません。他者の必要を満たすために身を粉にして働くことは良いことですし、必要なことでもあります。誰かが行わなくてはなりません。しかし、そのように働く「マルタにとって」必要なことがありました。それは、マリアからだけでなく、マルタからも取り上げられてはならない一つのことなのでした。その一つのこととは何でしょうか。
このとき、イエスさまは、御自分が十字架につけられることになることを承知の上で、エルサレムへと向かっていたのでした。それは御自分の命をもって、この世に救いをもたらすためです。そのイエスさまが来てくださって、救いの言葉を語っているのです。その御言葉を受け取るということは、命を与えるほどに愛してくださったイエスさまの愛を受け取ることに他ならなりません。それはマリアにとって必要なことでした。いや、究極においては、マリアが人生において必要としているのはそのことだけとも言えるのでしょう。「必要なことはただ一つ」。だからマリアから取り上げてはならないのです。そして、それはまたマルタにとっても必要なただ一つのことなのです。
イエスさまに苛立ちながら訴えたマルタは、結果として静かにイエスさまと向き合い、イエスさまに愛されている人として、その語りかけを聞くことになりました。イエスさまは確かにマルタを心に懸け、マルタが必要なただ一つを失わないでいることを望んでいました。そしてイエスさまは、生活の中での思い煩いの中で生きている私たちにも、そのことを望んでいるのです。
私たちも、ただ一つ必要なこと、すなわち神の恵みの言葉に耳を傾けるという、決して当たり前ではない、かけがえのない尊い時間を与えられていることに感謝しましょう。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子はエルサレムの入る前に遺言するように、マルタに「必要なことはただ一つ」と語りました。多くのことに心を乱している私たちも神の国の福音を聴く時を大事に持てますようにお導きください。私たちの救い主、イエス・キリストによって祈ります。アーメン