Sola Gratia

復活節第4主日 説教

イエスと神は一つ

22そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。 23イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。 24すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」 25イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。 26しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。 27わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 28わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 29わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。 30わたしと父とは一つである。」

きょうの福音の御言葉は、新共同訳聖書では「ユダヤ人、イエスを拒絶する」という題が付けられています。ユダヤ教指導者たちとイエスさまとの論争が何度も起こり、ここで対立が決定的となったことが記されています。

《そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった》(22)。神殿奉献記念祭は、口語訳聖書では「宮きよめの祭」と訳されていました。この祭りが出て来るのは、新約聖書ではここだけですが、「ハヌカ」(聖別、奉献の意)と呼ばれて、現在も祝われているユダヤ教の祭りです。

初めに、この祭りについてお話しします。最初のエルサレム神殿は、イスラエルが最も繁栄したソロモン王の時代の前950年頃に建てられました。その後、王国は分裂し、王が次々と代わる中で、前586年、イスラエルはバビロニア帝国に滅ぼされ、この神殿は破壊されてしまいます。また、国の主だった人たちは異国の地に引いて行かれました。これをバビロン捕囚と言います。数十年間の捕囚を経て、前515年、国に戻ることが許されます。人々はエルサレム神殿を再建しました。これらの出来事は旧約聖書のエズラ記、ネヘミヤ記に記されています。この再建された神殿は第二神殿と呼ばれます。イエスさまの時代の神殿は、この第二神殿です。

第二神殿建築後も、イスラエルはたびたび侵略、支配を受けました。セレウコス朝シリアのアンティオコス・エピファネスという王の時代に、ユダヤ人たちは反乱を起こしましたが失敗し、前170年にユダヤ人はエルサレム神殿から追い出されます。また、王はギリシア的な宗教を強要し、エルサレム神殿にゼウスの像を立てさせます。さらに、律法を守ることも禁止し、割礼を受けること等を許しませんでした。ユダヤ人の信仰の中心である、神殿と律法が、異邦人たちの手によって汚されたのです。

ユダヤの祭司たちはこれに反抗し、礼拝の自由、ユダヤの独立を求めて闘争を展開します。この戦いはマカベア戦争と呼ばれます。そしてついに、ユダ・マカバイが率いる軍勢がエルサレム神殿を奪回しました。神殿からギリシアの神々の像を排除し、新しい祭壇を備えました。それは紀元前165年12月25日のことでした。この闘争は旧約聖書続編のマカバイ記一、4章36~59節に記されています。この神殿の清めを祝うのが神殿奉献記念祭で、12月18日から25日まで一週間ほど続いて行われます。

そのような祭りが本日の箇所の背景です。この祭りの最中、イエスさまは、《神殿の境内でソロモン回廊を歩いておられた》(23)。ソロモン回廊とは、神殿の前庭を取り囲む柱廊の東側の部分です。人々が集まって教えを聞くことが多い場所でした。人々はそこで、イエスさまを見かけるや否や、周りを取り囲んだのです。そして、《いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい》(24)と問いつめたのです。原文はギリシア語でキリストと記されています。口語訳、新改訳とも「キリスト」のままですが、当時はイエスさまがメシアであるどうかが問題でしたから、新共同訳聖書は、「メシア」とヘブライ語に訳し戻しています。当時のユダヤ人たちの頭の中には、ユダ・マカバイのようなメシアのことがあつたでしょう。政治的に、軍事的に、民族的に、救い主となってくれるようなメシアを彼らは探し求めていたのです。

それに対するイエスさまの答えは、イエスかノーかではありません。イエスさまは彼らの考えを見抜いていたのでしょう。まずこう言います。《わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている》(25)。イエスさまはまず「わたしは言った」と言っていますが、もしもイエスさまはご自分をメシアだと明確に言ったことがあったとすれば、イエスさまがサマリアの女と対話をしたヨハネ福音書4章です。サマリアの女はこう言います。《わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます》(4章25)。それに対して、イエスさまは、《それは、あなたと話をしているこのわたしである》(4章26)と応じています。ある聖書学者は、イエスさまがはっきりとご自分がメシアであると言っているのは、ここだけではないかと言っています。他にはありません。それでも、「わたしは言った」と言っているのは、どういうことでしょうか。続けてイエスさまは、《わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている》(25)と言っています。イエスさまが今まで行った業によって、わたしがメシアかどうか分かると言っているのです。ヨハネ福音書は、イエスさまが行った奇跡の業を示して、その業がイエスさまは父から遣わされた方であることを示しているのだと主張してきました。イエスさまとはいったいどなたなのか。それは、行われたそれぞれの業によって分かる。その業を見て、あなたたちはどう判断するのか。それはあなたたちの問題だと、イエスさまは言うのです。

イエスさまにあなたはメシアなのかどうかと質問をしてきたユダヤ人たちは、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか」(24)と言っています。ここは、口語訳聖書では、「不安のままにしておくのか」となっていましたが、原文を直訳すると、「心が奪われている」となります。

自分たちのそのような願いがどのようにしたら実現をするのか。この人ではなかった。あの人でもなかった。第二のユダ・マカバイが現れてくれないものか。そして自分たちの願いを実現してくれないか。彼らそう思っていたに違いありません。そうだとすると、彼らにとって、別にイエスさまというお方が大事なのではなく、むしろ自分たちの願いを実現する方が大事なのです。「自分の願いを実現してくれる」メシアを探しているだけなのです。

イエスさまの答えが25節から始まっています。25節と26節の二回にわたって、《あなたたちは信じない》と言っています。なぜ信じないのか。その理由は、《わたしの羊ではないからである》(26b)。続けて、《わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」(27)と言います。ユダヤ人たちは自分たちの願いに心を奪われていました。しかしイエスさまの羊はそうではありません。心を奪われない。いや、奪われそうになったときにも、イエスさまの声の聞くこと、またイエスさまを呼ぶことを知っています。それがイエスさまの羊です。イエスさまの羊は、いったいどのように叫べばよいのか、そしてどこに向かって叫べばよいのか、そのことをよく知っているのです。きょうの聖書箇所に出てくるユダヤ人たちのようではありません。こっちに向かって「あなたがメシアなのか」、あっちへ向かって「あなたが私の願いを叶えてくれるメシアなのか」、そのことを問い続けるのではありません。そのようことに心を奪われることなく、一人の羊飼いに集中することができるのです。

この羊飼いは、羊たちをよく知っていてくださいます。こうあります。《わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う》(27b)。羊飼いは羊のことを一匹一匹、よく知っていてくださいます。さらに次の節では、良きものが与えられると言われています。《わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない》(28)。

「永遠の命」は、ヨハネ福音書の一つのテーマです。有名な3章16節には、こうあります。《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》(3章16)。永遠の命とは、信じる者に与えられ、さらにそれを言い換えて、「滅びることがない」と言われます。さらにそれもまた言い換えられて、「わたしの手から奪うことはできない」と言われます。盗人、強盗が襲ってきても奪われることがありません。たとえ死の力であっても、私たちは奪われることがない。イエスさまの羊であることは、とこしえに続くのです。

私たちもイエスさまの羊です。これから羊になるのではありません。もうすでに羊なのです。とこしえに失われることなく、イエスさまに守っていただける羊とされているのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子はご自分が誰であるかを、貧しい人・弱い人の友となることで人々に示されました。私たちが聖書の証言を通して、神の御子・救い主と信じて新しい命を歩むことができるよう導いてください。私たちの救い主、イエス・キリストによって祈ります。アーメン