主の受難 説教
主イエスの受難
- 2022年4月10日(日)
- 主の受難
- ルカ23章44~49
44既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 45太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。 46イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。 47百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。 48見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。 49イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。
イエスさまが十字架の上で息を引き取られる場面です。ルカによる十字架場面の描写をマタイ・マルコの描写と対照することによって深く味わいたいと思います。マタイ27章46、マルコ16章34では、イエスさまが十字架の上で最後に語ったのは、《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》という言葉ですが、ルカではイエスさまの最後の言葉は、《父よ、わたしの霊を御手にゆだねます》(46)となっています。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、イエスさまが父である神に見捨てられてしまったという苦しみ、絶望の中で死なれたことを示しています。マタイ・マルコは、イエスさまが、罪のゆえに神に見捨てられて死ぬ、その罪人の苦しみと絶望をご自分のものとなして、そういう苦しみの中で死なれたことを語っています。本来は、私たちこそ、自分の罪のゆえに神に見捨てられ、絶望の内に死ぬしかない者なのです。その私たちの絶望を、イエスさまが背負い、引き受けてくださった。それこそが、私たち罪人のための救いのみ業なのです。それゆえに、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という最後の言葉に、私たちはイエスさまによる救いの恵みを聞き取ることができるのです。
ところが、ルカでは最後の言葉は、《父よ、わたしの霊を御手にゆだねます》(6)と記されています。この言葉は、父なる神を信頼し、その御手に自分の霊を安心してゆだねているという印象を与えます。不信仰な私たちと何の関係があるでしょうか。しかし、ルカが描いているこのイエスさまの最後の姿も、罪と弱さの中にある私たちに慰めと救いを告げているのです。
まず、《既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた》(44~45)と語られています。イエスさまが十字架につけられたこの日、昼の十二時ごろ、全地が暗くなり、イエスさまが息を引き取った三時まで、その闇が続きました。神の独り子であるイエスさまが十字架につけられて死のうとしている、そのことを天も嘆いて光を失い、暗闇が全地を覆ったというのでしょうか。いいえ。この闇は、全地に住む人々が、神に背き逆らう罪の中にある、そのことの現れなのです。神の独り子であり、救い主として来られたイエスさまを十字架につけて殺すというのは、神に対する反逆であり、人間の重大な罪です。その罪の最中に闇が全地を覆った。つまり、この三時間の闇を語ることによって、ルカは、神との良い関係を失い、そのために罪と弱さに捕えられている私たちが今まさに陥っている現実を描いているのです。そういう私たちの闇の現実が、イエスさまが十字架につけられて殺されるという出来事においてあらわになったということです。ここでルカは改めて、《太陽は光を失っていた》(45)と語っています。それは、旧約聖書によれば神の怒りの印です。太陽は、私たちを明るく照らすために神が造り与えてくださったものですが、その太陽が光を失ったということは、私たちを照らしてくださる神の恵みが失われたというしるしです。人間は神の恵みを失い、怒りの下に置かれたということを、ルカは描いているのです。
そしてそこに、《神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた》(45)ことが付け加えられています。ここにもルカの特徴が現れていて、マタイとマルコでは、この出来事はイエスさまが息を引き取った直後に語られています。この出来事は、イエスさまの十字架の死によって実現したこととして描かれているのです。この「神殿の垂れ幕」というのは、神殿において、一番奥の「至聖所」と、その手前の「聖所」とを隔てる幕です。その幕の向こうの至聖所とは、神が人と面会する場所で、大祭司だけが、しかも年に一度だけしか入ることが許されません。つまり、この垂れ幕は、罪人である人間は罪の赦しと清めを経なければ神に会うことができないことを表しているのです。イエスさまの死と共にその幕が真ん中から裂けたというのは、罪人と神とを隔てていた幕が破けて、私たちが神のみ前に出る道が開かれたことを意味しています。イエスさまの十字架の死によってその道が開かれ、罪人である私たちが赦されて神のみ前に出ることができるようになった、そういう救いが与えられたことを示す出来事として、マタイとマルコではこのことが語られているのです。
ところがルカでは、この出来事はイエスさまの死の前に語られています。全地が暗くなり、太陽が光を失ったことと並んで、この出来事が語られています。ルカにおいては、この出来事の持つ意味はマタイやマルコとは違います。それは、イエスさまの十字架の死によって実現した救いではなくて、むしろイエスさまを十字架につけて殺すという人間のこの上ない罪の結果生じたことを語っているのです。つまり、この垂れ幕が裂けたことは、神殿が崩壊したこと、その神殿が消滅して神を礼拝する手段が失われた、神と人間とをつなぐ道が閉ざされてしまった、とルカは語っているわけなのです。私たちは罪によって深い闇に覆われてしまっていることを、ルカはここに徹底的に描いているのです。
そのような闇の現実の中に、イエスさまの声が響きます。《父よ、わたしの霊を御手にゆだねます》(46)。この言葉は、もっと静かに、穏やかに、ささやくように語られたもののように感じられるかもしれません。しかし、イエスさまは「大声で」叫んだのです。それは、イエスさまが、今全地を覆っている闇のただ中から、父である神に呼びかけた声です。イエスさまがご自分の霊を父である神の御手にゆだねることによって、闇に覆われた地上と天におられる父なる神との間をつないでくださっているのです。イエスさまはこのように大声で叫んで、そして息を引き取りました。このイエスさまの死によって、全地を覆っていたあの闇は消え去ったのです。イエスさまは、私たちが陥っているその闇の中へと来て、その闇を引き受けて十字架の苦しみと死を味わい、ご自分の霊を父なる神にゆだねてくださった。父なる神はイエスさまの霊をしっかりと受けとめることによって、罪の闇の中にいる私たちにも、イエスさまによって私たちの父となってくださり、私たちが良い交わりを持って、自分の霊を神にゆだねる、つまり神を礼拝しつつ生きる道を開いてくださったのです。
そこに新しい世界が開かれていきました。《百人隊長はこの出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した》(27)と記されています。百人隊長とはローマの兵隊の隊長です。イエスさまを直接十字架につけ、殺した責任者です。その彼が、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美したのです。彼のこの言葉は、自分たちが死刑囚だと思って処刑したこの人は実は正しい人だったというだけのことではありません。「神を賛美した」と語られています。異邦人であるこの百人隊長が、イエスさまの十字架の死の様を見て、神を賛美した、つまり礼拝したと語っているのです。イエスさまがその十字架の上で、父なる神にご自分の霊をゆだねて死んだことによって、まさにイエスさまを十字架につける罪の中にいる私たちが、父なる神を賛美し、礼拝する道が開かれたのです。
そして、《見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った》(48)ともあります。この群衆は、ピラトのもとでの裁判において、イエスを十字架につけろと叫んだ人々です。その群衆も、イエスさまのあのような最後を見て、胸を打ちながら帰って行きました。彼らはただ死者を悼むだけではなく、自分たちのしたことが間違っていたことを悟り、これを悔いたのです。
もちろん、本当の意味での新しい世界は、イエスさまの復活によってこそ開かれていきます。しかし、罪の闇の支配が終わり、新しい世界が開かれ始めているのです。この恵みの中で私たちも、自分の歩み、人生を父なる神にゆだねつつこの人生を歩む者とされていきます。そしていつか死を迎える時には、「父よ、私の霊を御手にゆだねます」と、父なる神を信頼し、その御手に自分の霊を安心してゆだねることができるようになるのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子が御父の心を証しし、私たちを父なる神と結び直すために命を献げてくださったことを感謝いたします。御子の十字架に証しされた慈しみ深い父のもとに私たちが立ち帰って生きることができますように。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン
(与えられた箇所は1節から49節までですが、本日の説教は44節以降のみを取り上げます。)