四旬節第5主日 説教
ベタニアでの塗油
- 2022年4月3日(日)
- 四旬節第5主日
- ヨハネ12章1~8
1過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。 2イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。 3そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。 4弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。 5「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 6彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。 7イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。 8貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
過越祭直前のエルサレムでは、最高法院がイエスさまを殺すという決議をしました(11章45~53)。そして、イエスさまへの逮捕状も出されました(11章55~57)。イエスさまの死が迫っていました。しかし、あえて、《過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた》(1)のです。ベタニアは、オリーブ山の南東の麓にある村で、エルサレムから約3キロメートルの近さです。そしてオリーブ山は、エルサレムの東側、キドロンの谷をへだててある「オリーブ畑」と呼ばれる小高い山です。
ベタニアに到着したイエスさまは、マルタとマリアの姉妹とその兄弟ラザロの家に滞在します。《イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた》(2)。この夕食の席にラザロがいたことが強調されていますが、それは、ラザロを生き返らせた出来事(11章38~44)が、イエスさま逮捕の直接のきっかけなったためでしょう(11章45~53)。
この夕食は、安息日を聖別し、安息日を終わらせる区切りの食事で、「ハヴダラー」(英語で havdalah)と呼ばれる特別な食事です。「ハヴダラー」とは「平日と聖日との区切りをつける」という意味です。
その翌日の日曜日に、イエスさま一行はエルサレムに入城することになります(12~15)。この日は、群衆がなつめやし(しゅろ科)の枝を持って迎たので、教会ではこの日を枝の主日とかしゅろ主日(Palm Sunday)と呼びます。この日曜日から受難週が始まります。
《そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。》(3)。女性のこのような行為は、奴隷が主人に対して、あるいは女性がその夫に対してのみ許されることですから、少なくとも既婚の女性でなければ許されません。ですから、このマリアの思い切った振舞いは、当時の社会通念からすれば考えられないことです。このことはかえって、そういう出来事がほんとうにあったものだと考えられます。
香油は、通常細長い首の壺に入っていました。「ナルドの香油」は東アジア原産の植物「甘松香」の根から精製される高価な香油「甘松油」(spikenard)のことで、医療のためではなく、主として香りのために用いられました。
「リトラ」は重さの単位で、聖書の付録の単位表によると、1リトラは約326グラムです。この量のナルドの香油がいかに高価であるかは、ユダがこの後の5節で、これを300デナリオンで売れると言っていることからも分かります。1デナリオンは労働者1日の賃金に相当する額ですから、300デナリオンはほぼ労働者の1年分の収入に相当することになります。現在の日本では数百万円の価格になるでしょう。
マリアがこの高価なナルドの香油を惜しげもなく注いで、《イエスの足に塗り、自分の髪の毛で彼の足をぬぐった》ので、《家は香油の香りでいっぱいになった》(3)。この香りは、イエスさまにある新しい御国の到来を告げる「しるし」だとされているのです。
《弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか》(4~5)。著者ヨハネは、あの裏切り者のユダがこう言ったのだと付け加えて、この抗議の言葉が邪悪な心から出たものであることを印象づけます。そして、次節でユダがこう言った動機を説明します。《彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼が盗人であり、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである》(6)。著者ヨハネは、ユダが「金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていた」「盗人」であることが、彼が香油を300デナリオンで売ることを主張した動機だと説明します。すなわち、香油を売った金で、彼がごまかした会計の穴埋めをしようとしたのだと言うのです。
《イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない》(7~8)。
ここで「葬り」と訳している言葉は、本来「埋葬の準備」を指しますが、「埋葬」そのものを指すのにも用いられます。ユダヤ人は遺体を埋葬するとき、遺体に香油を塗り、布で包んで墓に納めました。それが「埋葬の準備」です。イエスさまは御自分の死がそのような正式の「埋葬の準備」も許されない非業の死であることを覚悟していたので、マリアの塗油をご自分の埋葬の準備と意味づけて受け入れます。イエスさまは、生きながらにしてすでにご自分を遺体としているのです。処刑された囚人の遺体は、塗油など「埋葬の準備」を受けることなく、共同墓地に投げ捨てられるのです。
7節のイエスさまの言葉は、直訳すると、「彼女がそれ(香油)をわたしの埋葬の日のために取っておいたことになるために、彼女にそれをさせてやりなさい」となります。マリアは初めからこの香油をイエスさまの埋葬の日に用いようとして蓄えてきたのではないでしょう。しかし、これまでとくに目的を定めず蓄えてきた香油をこの日にイエスさまに注ぐことによって、これまで香油を蓄えてきた行為がすべてイエスさまの埋葬の準備としての意味、すなわち神の救いの歴史のかけがえのない出来事に参与するという高貴な意味をもつことになります。そのように、私たちもイエスさまの死に自分を投げ込むとき、これまで自分が蓄積してきたものすべてが、イエスさまに仕えるため、イエスさまにあって神に仕えるためであったという尊い意義を獲得するのです。
マリアがどのような動機でイエスさまの足に香油を注いだのかは、正確に知ることはできません。愛する兄弟ラザロを生き返らせてもらったことへの感謝、日頃深く敬愛する師に対する敬意もあったことでしょう。しかし、女性特有の愛の直感から、イエスさまのただならぬ決意を察し、これが最後の機会になると感じて、自分の持っている最も大切なもの、いや自分自身をすべてイエスさまに注ぎ込んだのでしょう。重要なのは、マリアの動機ではなく、これをご自分の埋葬の準備として受け止めたイエスさまのお言葉であり、そのお言葉が指しているイエスさまの死の事実、そしてこのイエスさまの死が私たちのために持つ意義です。
この重要な意義の前には、貧しい人たちへの慈善という善い働きも二の次の問題となります。私たちにはまずイエスさまとの関係があって、その次に人々との関係が来ます。《わたしはいつも一緒にいるわけではない》(8)と言って、世から去って行かれたイエスさま、すなわち十字架の死を通って天に帰られた方に自分を注ぎ尽くすことが、人々への奉仕の前になければならない、ということです。
マリアがイエスさまの足に香油を注いだとき、《家は香油の香りで満たされ》(3)、イエスさまを囲む晩餐の席は、イエスさまから発するただならぬ霊気と共に、この世のものと思えない場になります。このベタニヤにおけるもう一つの「最後の晩餐」の光景は、イエスさまの死によって贖われた者たちにとっては、忘れることができない貴重な場面となります。この場面について、イエスさまはこう宣言します。《世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたこともまた記念として語り伝えられだろう》(マルコ14章9)。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまはベタニアで塗油を受けることを通して、苦難を受ける世の救い主であることを示されました。私たちも貧しい人生を御子に献げます。これを私たちのナルドの香油として受け入れてください。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン