Sola Gratia

四旬節第4主日 説教

放蕩息子のたとえ

11b「ある人に息子が二人いた。 12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 28兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

きょうの聖書は、たいへん良く知られた「放蕩息子のたとえ」です。長い話ですので、今回は兄息子に焦点を当てて聞いていきたいと思います。

ある人に息子が二人いました(11)。弟の方は、父親から相続することになっている財産を先に分けてもらい、全部をお金に換えて家を飛び出し、放蕩の限りを尽くして全財産を使い果たしたあげく、家に帰ってきました。その弟が帰ってきたので、父親は喜びのあまり兄の帰宅を待たずに祝宴を始めます(23~24)。一方、兄は怒りのあまり家に入ろうとしません(28)。兄は、弟に対する父親のあまりにも大きな愛を理解できなかったからです。自分勝手に家を飛び出し、勝手気ままに放蕩の限りを尽くして帰ってきたのに、喜んで息子として受け入れるなんて、父は甘すぎる。せめてさしあたりは雇い人同様に扱うべきだ。兄の思いとしてはこうだったのでしょう。

兄はなぜ父と思いを一つにすることができなかったのでしょうか。この兄はずっと父の家にいながら、こうなってしまいました。多くの説教者たちは、兄のことを、「この兄は、家にいながら、放蕩をしていたのだ」と言います。兄は最初から父に対して、言葉には出さなかったけれども、心の中では不平不満があったのです。兄は見かけでは、理想的な父の息子のようですが、家にいながらも、本当には父の息子に成れていなかったのです。

このことは、兄の言葉に現れています。兄は父に、《このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています》(29)と言います。ここで「お父さん」と訳されている言葉は、原文では「あなた」です。ずいぶん冷たい言葉です。「あなたに仕えている」と言っていますが、この「仕える」は、奴隷として仕えるという言葉です。親子の関係で仕えるというのではなく、奴隷のように仕えているという言葉なのです。兄が弟の帰りを喜ぶことができなかったのは、結局は、このように、父との関係が切れていたからです。

兄は続けてこう言っています。《あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる》(30)。ここも父を「あなた」と呼んで、「あなたのあの息子」と言っていますが、ここは「わたしの弟」と言うべきところです。弟のことをもはや弟と思っていないうえに、父のことも「あなた」と呼ぶ。兄と弟との間の関係も、父と兄との間の関係も切れてしまっていたのです。だから、一緒に喜べなかったのです。父の喜びも、父の愛を理解できなかった。父そのものを理解できていなかったのです。

この譬え話は、神が父に譬えられていて、私たち人間が兄であり、弟です。きょうは兄の立場から、この譬え話を味わっていますが、信仰者にとって大切なのは、いかに兄のような生き方から抜け出るかということだと思います。兄は父の気前のよすぎる愛(マタイ20章13~15)をねたみました。私たちも神の愛が気前よすぎると思っているところがないでしょうか。

私は果たして信仰者にふさわしいだろうかと自問したとき、たいていの人は自分はふさわしくないと思うでしょう。しかし、説教を聴いても、聖書を読んでも、私たちは、ただ神が私たちを愛してくださったから、私たちは救われたのだと聞きます。あなたは努力をして立派な信仰者になりなさい、そうすれば神はあなたの努力を認めて、救ってくれる、とは聞きません。私たちはただ恵みによってのみ救われたのです。

本当にそうだろうか。そんな虫のいい話であるはずがないと思う人は、兄に似ている人です。気前のよすぎる神の愛を受け入れることができていないからです。弟が無条件で赦されるような甘やかせる愛よりも、父に仕えた報いによって愛してもらう方が、兄にとってよほど受け入れやすいのです。

兄は父の気前のよすぎる愛に反発しました。けれども、兄と同じ道をたどるとすれば、父の愛を拒否することになります。拒否をするなら、その愛なしで生きなければなりません。この愛がなければ、私たちは兄と同じく、奴隷のように仕えて努力する以外にはありません。神に認めていただけるように、自分の正しさを示さなければならないからです。

このような兄の人生は、本当につまらない人生になってしまいます。父の家にいるにもかかわらず、喜ぶことができない。父の家で開かれている祝宴に入っていくことができないのです。兄は父の家にいながら、父にとって失われた人になってしまいます。ですから、父は、もう一度、父と子の関係を新たに結び直そうとしているのです。そして兄と弟との関係も、もう一度、結び直そうとしているのです。兄はそうなるようにと父から招かれているのです。

この譬え話は招きで終わっています。《祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか》(32)。その後、兄がどうしたということは語られていません。さあ、あなたはどうしますか、と問う形で終わっているのです。

私たちに問われているのは、父の気前のよすぎる愛の中に飛び込むのか、それとも、その話は虫がよすぎる、そんな気前のよい愛など理解できない、自分は兄の道を貫くか、このどちらかです。兄のような生き方から脱け出るかどうかの分かれ道に立たされているのです。

いままで、「虫がいい」とか「気前がよすぎる」という言葉を使ってきました。たしかに神の愛は私たちにとって虫のいい話かもしれません。しかし、実は、虫のいい話ではないのです。私たちが何の代価もなしに救われるということは、たしかに虫のいい、身勝手な話に聞こえますが、実は、代価はきちんと支払われたのです。その代価が、神の独り子の命だったのです。

その代価が支払われたからこそ、弟息子は赦されて父の家に戻り、雇い人ではなく息子のまま受け入れてもらうことができました。兄も、この代価が支払われたからこそ、父は喜びへと招いていてくださるのです。気前がよすぎると思われるような愛の話が成り立っているのも、虫がよすぎると思われるような話が成り立っているのも、私たちの救いの出来事が成り立つのも、イエス・キリストの十字架があるからなのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたが御子イエスさまを通して、私たちに無条件の愛を、救いの恵みを備えてくださったことに感謝します。私たちもまた、父であるあなたに立ち帰り、喜びの祝宴に加わることができますように。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン