Sola Gratia

顕現後第6主日 説教

幸いな人たち

17イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、 18イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。 19群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

20さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。

「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。/21今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。/今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。

22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 23その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。

24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。/25今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。/今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。

26すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

イエスさまは、山に登り、徹夜で祈ったのち、弟子たちを呼び寄せて、その中から十二人を選びました。それから、《イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった》(17)。すると、多くの群衆がイエスさまの教えを聞こうとして、また病気を治してもらうとして集まってきました。

そのとき、《イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」》(20)。これが今回の説教の第一声です。新共同訳聖書では「貧しい人々は」が最初の言葉になっていますが、原文では「幸いである」が最初の言葉です。文語訳聖書では、その通り、「幸福(さいはひ)なるかな、貧しき者よ」と訳されていました。第一声は「幸いだ」です。イエスさまは何としても「幸い」を告げたかったのです。また、新共同訳では「あなたがた」が省かれていますが、原文は「あなたがた貧しい人々は」です。口語訳聖書は「あなたがた貧しい人たちは」と訳していました。どこか遠くの「貧しい人々」のことではない、私の話を聞いている、あなたたちのことだ、とイエスさまは言っているのです。

弟子は、これからイエスさまに従い、イエスさまの後に付いて行く者たちです。その歩みは、けっして楽なものではありません。イエスさまが付いているから、万事が大丈夫というような歩みではなかったのです。

イエスさまは、弟子たちを派遣するとき、ほとんど何も持って行かないようにと命じました(9章3~5参照)。食べ物もお金も旅先で調達しなさいということです。もし食べ物が得られなかったら、お腹が空き、飢えることになります。飢えるだけでなく、寒さをしのぐことのできる泊まる家が得られなかったら、泣くことになるかもしれません。さらには、《だれもあなたがたを迎え入れないなら・・・》(9章5)ということだってありえたのです。

これはまさに、《人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき》(22)です。その意味で、「貧しい人々」(20)、「飢えている人々」(21)、「泣いている人々」(21)、迫害されている人々(22)とは、弟子たちのことにほかなりません。それは、あなたたちのことですよ、とイエスさまは言っているのです。

そうではあるのですけれども、イエスさまは、あなたたちは「幸いである」と言います。それに続けて、どうして幸いなのかという根拠を語っています。その根拠とは、《神の国はあなたがたのものである》(20)からです。この言葉は現在形です。「もう神の国はすでにあなたがたのものだ」ということです。これは驚くべき言葉です。

イエスさまの教えの中心内容は「神の国」です。ルカ福音書で最初に「神の国」という言葉が出てきたのは、この箇所です。《しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」》(4章43)。これは、イエスさまが神の国の福音を告げ知らせなければならないと言っているのですが、その具体的な内容が、きょうのイエスさまの言葉なのです。

「神の国」というのは、マタイ福音書は「天の国」と言い換えていますから、天国の話だと思われがちですが、この場合の「天」は、神を言い換えた言葉です。「神の国」とは、神ご自身がこの世を支配し、秩序を新しくするという意味です。その時が近づいている、いや、イエスさまの到来とともにすでに始まっていると言うのです。イエスさまを受けいれるか否かによって、先にいる者が後になり、後にいる者が先になる(マルコ10章31)、徴税人や娼婦たちの方が自分を義人とする者たちよりも先に神の国に入る(マタイ21章28~32)と言われます。その時には世の秩序が新しくなるということを頭に置いて読めば、次の言葉がよく分かると思います。《しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である》(24~26)。

大切なことは、ここでもイエスさまが「あなたがた」と語っていることです。「幸い」を告げられたあなたがたの中にも、この世の富に引かれて思い煩い、人を愛さない人々のようになってしまう面があるということです。しかし、その幸いでないことに生きるのではなく、神の国はもうあなたがたのものなのだから、幸いな者として生きなさいと招いているのです。

福音書に出てくる多くの人は、イエスさまとの出会いによって変えられました。直前の5章に出て来た徴税人のレビもそのひとりです。徴税人は税金を規定以上に取って、私腹を肥やしていました。レビもイエスさまと出会った日に、《自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した》(5章29)のですから、裕福な人だったのでしょう。きょうの箇所の24節の「富んでいる」人々は、レビに代表されるかもしれません。

しかし、レビもイエスさまと出会い、弟子として招かれます。すぉして、弟子として歩むことで、レビは貧しくなりました。しかし、「あなたは幸いだ」とイエスさまは仰しゃいます。神の国と関わりなく、この世の富で生きていたレビを、たとえこの世の富が無くなっても、神の国と関わりのある者として、すなわち幸いな者として招いてくださったのです。

多くの人がレビのように、やはり貧しさから「幸い」が始まっています。マタイ福音書では、単に「貧しい」と言うのではなく、「心の貧しい」というように、心が付け加えられています。新共同訳聖書の前に、共同訳聖書というテスト版が出版されました。その共同訳聖書では、「心の貧しい人々」というのを、「ただ神により頼む人々」、と少し解釈を含んだ訳にしました。「ただ神により頼む」という訳は、ここで言っている貧しさをよく表していると思います。

ルカ福音書では「心の」という言葉はありませんけれども、マタイ福音書と同じ意味を含んでいます。貧しいという言葉は、単にお金がないとか、そういう貧しさだけを表しているのではありません。頼るべきものが完全に何もないという困窮した状態を表しています。「ただ神により頼む」しかないのです。自分の力やこの世の力ではどうしようもない。自分のこの貧しさを知る、そのときに、ただ神により頼むのです。

私たちは貧しい状態にあるかもしれません。しかし、イエスさまは幸いだと仰しゃいます。神の国が私たちのものであるからです。この地上では富むこともなく、満腹することもなく、笑うことも、ほめられることもないとしても、《天には大きな報いがある》(23)のです。地上に報いがなくても、けっして消えることのない報いが天にはあり、そのことを喜び踊ることができるのです。

本来、私たちは幸いではなかったのです。24~26節で語られている不幸の方が私たちには相応しかった。しかし、その不幸をイエスさまが引き受けてくださった。《人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき》(22)とあります。「人の子」とはイエスさまのことですが、憎まれる、追い出される、ののしられる、汚名を着せされる、これらの言葉はイエスさまの十字架のときに相応しい言葉です。イエスさまが私たちの代わりに、この不幸を引き受けてくださいました。それゆえに、私たちは幸いを受けることができたのです。ですから、イエスさまは「あなたがたは幸いだ、神の国はあなたがたのものだ」と言ってくださるのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまが心貧しく生きる私たちに無償で与えられる「神の国の幸い」をもたらしてくださったことに感謝します。私たちがその幸いを深く理解し、迷いなく受け入れて、その道を歩めるよう導いてください。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。