四旬節第2主日 説教
第三の受難予告
- 2012年3月4日(日)
- 四旬節第2主日
- マルコ10章32〜45
一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」
ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
いま私たちはイエスさまの死と復活の恵みを深く思う四旬節を迎えていますが、ただ今はマルコ福音書から、第三の受難予告とそれに続くイエスさまが受難と死の意味を語る個所を聞きました。
きょうのマルコ10章の受難予告に前に、8章に第一の、9章に第二の受難予告が記されています。この三回ともイエスさまの予告の後には、弟子の誤解とイエスさまの説明が続きます。8章ではペトロがイエスさまをいさめる大間違いを犯しています。イエスさまは彼を「サタン、引き下がれ」と叱り、弟子たちと群衆とに「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と呼びかけました。9章では弟子たちが皆でだれがいちばん偉いかと議論し合います。イエスさまは十二人に「すべての人に仕える者になりなさい」と語り、(いちばん偉いこととは対極の)子供を受け入れる者は、ひいては神ご自身を受け入れるのだと教えました。この10章では、ゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスさまの右と左の座に就くことを求めます。イエスさまは十二人に「皆に仕える者になり、すべての人の僕になりなさい」と求めました。
三回に共通するのは、弟子たちが「栄光だけを求め、十字架を理解しない」ことです。イエスさまが受難を語るたびに、弟子たちは栄光、地位、権力、名誉を求める方向へとずれていきます。これに対してイエスさまは毎回、「十字架を通らない栄光はない」、そして「偉大さとは仕えることだ」と伝えます。
興味深いのは回数を経るごとのそれぞれの変化です。三回を比較すると、弟子の誤解はむしろ深まっているように見えます。第一回は個人レベルの誤解、第二回は集団での誤解、第三回には地位要求がありました。つまり、誤解は抽象的から具体的に、さらには露骨な形へと進行していのです。イエスさまの教えについてはその都度深まり、最後には「身代金として命を献げる」という受難の意味の核心まで語られます。
さて、10章32節にこうあります、《イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた》。これまでイエスさまが先頭に立つことはなかったのかと、ページを戻って確認したくなるような書かれ方です。
マルコ福音書では、イエスさまは群衆に囲まれたり、弟子と共に歩いたりしますが、「先頭に立って歩く」という強い表現はここが初めてです。明らかに、受難に向かう決意の強さと、神の計画に従う主体的な歩みが示されています。
イエスさまが先頭に立ったことが何を意味するのかを考えましょう。
「先頭に立つ」という言葉は、三つのことの象徴としてが使われています。一つは受難への主体的な従順です。イエスさまは「仕方なく」ではなく、自ら進んで十字架へ向かいます。二つめは羊飼いとしての導きです。羊飼いは「後ろから押す」のではなく、前から導きます。三つめは神の国の王としての権威です。イエスさまは死に向かう道にあってさえ、王として先頭に立たれるのです。
弟子たちや従う者たちはなぜ驚き、何を恐れたのでしょうか。エルサレムは宗教指導者たちの本拠地です。イエスさまはすでに彼らと対立していて、エルサレムに行くことは危険であると誰もが知っていました。エルサレムの動向を注視しているローマの権力も脅威でした。そのような状況下、受難予告を理解しないながらも、弟子たちは「師が死地に向かって突き進んでいる」と感じたのです。
ここで少し話を変えて、三回の受難予告の後に名が記された三人について説明しましょう。
三人は「最初期の教会で中心的な立場を担った」人たちです。ただし、三者の役割は同じではなく、それぞれ異なる形で中心性を持ちました。
ペトロは、エルサレム教会の事実上のリーダーで、最初期教会の「最重要指導者」です。
ゼベダイの子ヤコブは、使徒言行録12章でヘロデ王によって処刑された最初の使徒です。初期教会の中心的メンバーではありましたが、活動期間は短かった方です。
対してヨハネは、「長寿の使徒」として初期教会の後半期における重要な神学的指導者となりました。
イエスは十二弟子の中でもペトロ・ヤコブ・ヨハネの三人を特別に伴った場面が複数あります。ヤイロの娘の癒し(マルコ5章)、変容の山(マルコ9章)、ゲツセマネ(マルコ14章)。この三人は、イエスの働きの核心に最も近い位置にいたため、初期教会でも自然に中心的役割を担うことになったと考えられます。
その中心的な三人がイエスの受難予告を理解していなかったと記されていることに、私たちはどのようなメッセージを読み取るべきでしょうか。
イエスの最も近い三人の弟子(ペトロ・ヤコブ・ヨハネ)が受難予告を理解できなかったという事実は、「信仰の核心は理解力ではなく、従う心である」という真理を私たちに伝えています。これは、現代の信仰者にとっても非常に重要な示唆です。彼らはイエスの最も近くにいましたが、理解は最も遅れました。これは、「近くにいること」と「理解すること」は別問題であるということを示します。弟子たちは「栄光のメシア像」に囚われていました。そのため、「苦しむメシア」、「十字架に向かうメシア」という発想が受け入れられなかったのです。
まとめます、ここからが最も重要な部分です。
信仰は「理解できること」より「従うこと」が先に来ます。弟子たちは理解できませんでしたが、イエスに従い続けました。信仰とは「完全に理解してから従う」ものではないというメッセージです。私たちも、苦しみの意味、神の計画、十字架の必要性などを完全に理解できないことがあります。しかし、理解できない時でもイエスに従うことが信仰の本質であると福音書は語ります。
神の救いは「人間の理解を超える」ものです。弟子たちが理解できなかったのは、十字架が人間の常識を超えた救いの方法だったからです。救い主が殺される、救いが敗北のように見える、栄光が苦しみを通って現れる。これらのことは人間の論理では説明できません。神の救いは人間の理解力の限界を超えているということを、弟子たちの「理解できなさ」が逆説的に示しています。
「信仰の成長は時間がかかる」ものです。弟子たちは、イエスの受難を理解できませんでした。誤解し続け、逃げ、裏切りました。しかし、復活のイエスに出会って初めて理解が開かれたと記されています。これは、信仰の成長は一気に起こるのではなく、時間をかけて開かれる、という励ましです。私たちも、すぐに理解できず、迷い、誤解する、弱さを抱える人間です。しかし、それでも神は私たちを導き続けてくださる、という希望と確信がここにあるのです。