Sola Gratia

復活節第5主日 説教

イエスはまことのふどうの木

1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

《わたしはまことのぶどうの木・・・である》という言い方は、「わたしはよい羊飼いである」が、偽物の羊飼いとは違うということだったのと同じで、まことではない「偽りのぶどうの木」があって、それとは違うと言っているのです。

旧約聖書の時代から、しばしばイスラエルの民はぶどうの木にたとえられました。ぶどう畑の有名な箇所としてイザヤ書5章1~7節があります。そこでは、神がイスラエルの民をどれほど愛されたかが語られています。しかし、イスラエルの民は、神の期待に反して、酸っぱいぶどうの実を結ぶ、野ぶどうとなってしまったというのです。それが「偽りのぶどうの木」です。酸っぱいぶどうの実とは、偶像礼拝であり、社会的不正義でした。イスラエルの民は、良き実りをつけないぶどう畑になってしまっていたということです。

イスラエルの民は自分たちが神の選びの民であり、神の祝福の継承者であると誇っていましたけれども、神に選ばれただけでは、「まことのぶどうの木」とは言えません。イエスさまが「わたしはまことのぶどうの木である」と言われたとき、それは、神が求める良き実をつける新しい神の民がわたしから始まっていくと宣言されたのです。つまり、神の約束が真実なものとして宿っているイエスさま、「まことのぶどうの木」にこそ、私たちはつながらなければならないということです。イスラエルの民であることが救いの条件ではなく、イエスさまにつながっている者こそが救いにあずかるのです。

《わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる》。「わたしはまことのぶどうの木」という宣言に続いてすぐ、このような厳しい警告が発せられます。私たちは、よい実を結ぶように、自分で一所懸命、清くならなければならない、そうならなければ、自分は切り捨てられるのだろうかと不安になるかも知れません。

しかし、神の目的は枝を切り落とすことにではなく、実り豊かな枝とすることにあります。イエスさまは続けて、慰めと励ましの言葉を語っています。《しかし、実を結ぶものみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる》。信仰者として歩むことでいろいろな困難を経験しますが、それは父がなさる剪定なのだと、イエスさまは言っています。私たちが命の通った枝であるかどうかの問題です。

ですから、イエスさまは《わたしにつながっていなさい》と私たちに呼び掛けるだけでなく、イエスさま自身が《わたしもあなたがたにつながっている》と約束してくださっています。ぶどうの木とその枝というたとえですが、実際にはどこまでがぶどうの木で、どこからが枝と分けられません。これは、イエスさまと私たちの命の一体性を示しています。つまり、私たちがイエスさまの中に生きるということであり、イエスさまが私たちの中に生きるということです。

このことをさらに具体的に言えば、私たちが聖書の言葉の中に生きるということであり、聖書の言葉がいつも息づいている生活を私たちが保つということです。イエスさまは、《わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くされている》のだと言ってくださいました。命令以前に、事実として、そう宣言されたということを心に留めたいと思います。神の手入れはイエスさまのみ言葉をとおして実現します。み言葉を聴くということは、私たちの中にある真の実りを得ることのない部分が取り除かれていくことです。枝は自力で実を結ぶのではなく、木につながって生きている枝が成長して実を結ぶのだからです。枝が木につながっていること、それが私たちの実りであると言ってもよいでしょう。この神の手入れがなかったならば、どうして私たちがこうして主の日の礼拝を守ることができるでしょうか。

5節の《あなたがたは枝である》という宣言と4節の《わたしにつながっていなさい》という命令は、一見矛盾するようです。しかしその表現は、信仰の本質を捉えていると思います。イエスさまはぶどうの木として、私たちに関係をもち、私たち一人ひとりをその枝として結びつけてくださいます。しかも、それを確かな事実として、自ら積極的に言っているのです。

しかし私たちは、それをそのまま受けとめるわけではありません。私たちはそれを見失い、離れて行ってしまいます。深いところでは、受けとめられているけれども、私たち自身がそれを認識していなければ、実際には離れているのと、同じ状況になってしまうということです。《信じない者は既に裁かれている》(ヨハネ3:18)と言われているとおりです。呼びかけに応えて「従っていく」ということが伴っていなければ、本当に「聞いた」、「信じた」ということにはなりません。ですから、このように命令と宣言が同時に語られるとき、それは、イエスさまが私たちに、「わたしがあなたたちのために何をしたか思い出しなさい。立ち帰って、わたしの愛の中にとどまっていなさい。そして、あなたたちも愛に生きる者となりなさい」と言っていることなのです。

《わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである》。私たちは、信仰をもって生きるとき、どこまでも、このまことのぶどうの木から離れることができないということを、わきまえていなければなりません。まことのぶどうの木であるイエスさまから離れてしまっては、もはや信仰とはいえません。ですから、教会で私たちが信仰生活を続けるというライフスタイルには、卒業ということはあり得ません。一生、ある意味で求道者であり続けるのです。私たちは、しばしばそのことを見失って、忘れてしまいますが、そこへいつも立ち帰って行くようにと促されているのです。

そしてイエスさまは続けて言います。《あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすれば、かなえられる》。これは、これまでのところでも出てきました。《わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう》(14章13)。マタイ福音書では、《求めなさい。そうすれば、与えられる》(マタイ7章7)という(無条件の)表現でした。しかし私たちは、いつもそういう言葉を聞きながら、「本当にそうだろうか。必ずしもそうはなっていないではないか」という思いを持つのではないでしょうか。そう思うのももっともなことです。しかし、「求めなさい。そうすれば、与えられる」というのは、私たちが求めているものが、そのままで与えられるということではありません。イエスさまこそが、私たちに本当に何が必要であるかをご存知であって、私たちが求めているものとは違った形で、あるいはそれを超えた形で、答えられることがしばしばあるのです。また私たちが求めている時に答えられるとは限りません。時を延ばされて、違った時に答えられるということもあるでしょう。最もふさわしい時に、最もふさわしい形で、(それは時に私たちの期待に反するような形であるかも知れませんが)、答えられるものなのです。

ヨハネ福音書の「わたしの名によって願うことは何でも」とか「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にあるならば」とかいう条件付きの表現は、「どんなわがままな願い、非人間的な願いも、すべて言うとおりにかなえられる」ということではないということを示しています。悪意とか強欲から生じた願いが、そのまま全部答えられるわけではないということは、かえって救いであると思います。その奥にある願いは何であるか本当は何を求めているのか。それを私たちよりも一つ高い次元で受けとめてくださって、答えてくださる。そうであってこそ、私たちのまことの神、まことの救い主であると思います。

ヨハネの手紙に、《何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です》(1ヨハネ5章14)とあります。神の御心にあることを私たちが願うようになる。このことこそ、信仰の実を結ぶことであると思います。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまがまことのぶどうの木として、私たちをその枝としてくださった恵みと愛に感謝します。その恵みと愛にとどまって、イエスさまに繋がって、その愛に生きる者となりますように、守り導いてください。私たちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。