Sola Gratia

復活節第3主日 説教

イエスの最後の言葉

36こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 37彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。 38そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。 39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」 40こう言って、イエスは手と足をお見せになった。 41彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。 42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、 43イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 48あなたがたはこれらのことの証人となる。

イエスさまが復活された日の夜のことです。弟子たちが集まってきて、イエスさまと出会ったと互いに報告し合っていると、いきなり復活のイエスさまが現れて、弟子たちの真ん中に立ち、《あなたがたに平和があるように》と挨拶されました。いったい、いつどこからこの部屋に入って来たのか。弟子たちはびっくりして、これはイエスさまの亡霊だと思ったのでした。この復活のイエスさまの現れ方は、まさに《二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである》(マタイ18章20)と言われたことの実現なのですが、弟子たちはそんなイエスさまの約束を思い出しもしません。このとき、弟子たちは、復活のイエスさまと出会ったという報告を聞き、話し合っていたのです。にもかかわらず、そこにイエスさまが現れると、亡霊だと思って恐れおののきました。私たちがいかに復活ということを信じられないかをはっきり示しています。

イエスさまは言います。《なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある》。復活のイエスさまを目の前にしてもまだ信じられない弟子たちに向かって、何とかして信じさせようとします。亡霊には肉も骨もない。しかし、わたしにはある。触ってみなさいとまで言われます。さらにイエスさまは、なおも信じられない弟子たちに向かって、《何か食べ物はあるか》と言って、焼いた魚を弟子たちの前で食べます。自分は幽霊なんかではないということを、これでもかと示しました。

イエスさまは、なぜこれほどまでに、何としてもご自身の復活を信じる者にさせようとしたのでしょう。それは、復活が死の支配を打ち破った命だからです。イエスさまの復活は私たちの命を根本から変える出来事だからです。

復活は、実に信じ難いことです。その信仰は、私たちの内面から自然に信仰が湧き上がってくるものではありません。私たちの内にあるのは、信じられないという頑なさです。しかし、その信じられない私たちを何とか信じる者にしようと、イエスさまは心を砕き、働きかけてくださいます。《そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて》とあります。聖書が分からない弟子たちの心の目を開いて、聖書が分かるように、イエスさまがしてくださるのです。信仰とは与えられるものだと言うのは、このことです。「心の目」が開かれるのは、復活したイエスさまが送ってくださる聖霊の働きによります。私たちは、このイエスさまの働きかけによって信じる者とされました。私たちは、復活して今も生きておられるイエスさまの姿をこの目で見ることなしに、この目で見るよりも確かな仕方で、「心の目」で見て、信じて歩むのです。

ここでイエスさまは《わたしの手や足を見なさい》と言われました。そして《こう言って、イエスは手と足をお見せになった》。イエスさまが弟子たちに見せた手と足には、十字架にかけられた傷痕があったに違いありません。イエスさまは、ここで、自分には手も足もあるから幽霊ではないと言っているのではなくて、「わたしは、あの十字架にかかって死んだ、あのイエスだ」と言っているのです。《まさしくわたしだ》。わたしは、あなたがたが知っている、あのイエスだ、と言われたのです。

《彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので》とあります。死んでしまったと嘆き悲しんでいたイエスさまが生きておられることを知って、弟子たちは大いに喜びますが、今自分たちが経験していることが何を意味するのか、彼らはまだ理解できないでいます。ただ驚き不思議がっている弟子たちに、イエスさまは御自分の手と足を見せ、魚を食べ、そして聖書の解き明かしをされました。後にイエスの復活を証言した弟子たちは、イエスが自分たちの前で食事をされたこと、あるいは自分たちがイエスさまと一緒に食事をしたことを重要な体験として証言しています。

ここでイエスさまは弟子たちに、《わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである》と言っています。そして、《次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する』》と解き明かしました。「モーセの律法と預言者と詩編」とは、当時のユダヤ教聖書の三部(律法、預言者、諸書)を指しています。諸書の部はまだ完結していなかったので「詩編」で代表させています。この三部のすべてにおいて「来たるべき方(救い主)」について書かれていることを、イエスさまは「わたしについて書いてある事柄」と言って、それが「必ずすべて実現する」と語ります。そして、十字架も復活も、聖書に書かれていたことであり、神の永遠の計画の中にあったことなのだと告げたのです。

この神の永遠の計画は、このイエスさまの十字架と復活によって、すべてが終わったのではありません。《また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる》とあるとおり、イエスさまの名による罪の赦しが宣べ伝えられることも聖書に預言されていたことだと言うのです。宣べ伝えられる内容は「罪の赦しを得させる悔い改め」です。これは、パウロの「信仰による義」と同じことを言っているのですが、「義」というユダヤ教的用語を避けて、「罪の赦し」という異邦人にも分かりやすい用語で、神に受け入れられている状態を指し示しています。それがどのように「宣べ伝えられる」のか。それは、あなたたちがこれらのことの証人となって、エルサレムから始まり、すべての民に宣べ伝えられなければなりません。この働きを委ねられた人たちが「使徒」と呼ばれることになります。

「救うために救われた Saved to save」という言葉が、教会で長く語られてきました。自分の救いは、自分だけのものではありません。自分が救われたのは、自分を通して一人でも多くの者が救われるためでもあります。

イエスさまの弟子たちは、この復活のイエスさまとの出会いによって変えられました。神の大きな救いの御業の中で生かされ、それに仕える者として召されたからです。自分の幸い、自分の願いというもの以上のもの、自分の人生に意味を与える大きな使命を与えられたのです。使命が与えられることを「召命」と言います。ここに、イエスさまの召命に応えて生きるという新しい人間がここに誕生したのです。私たちにもこの召命が与えられています。復活のイエスさまを信じる者には、この使命も共に与えられているのです。

弟子たちは、イエスさまが十字架にかけられて死に、自分たちもイエスさまの弟子として捕らえられてしまうのではないかと恐れおののいていました。しかし、そのような恐れに満ちた弟子たちに、復活のイエスさまはその姿を現し、《あなたがたに平和があるように》と告げました。このイエスさまの言葉は、弟子たちの中で出来事となります。彼らは恐れから解放され、平安を与えられて、イエスさまの証人として立てられたのです。人は何を恐れているでしょうか。病気・世間体・子どもの将来等々いろいろあるでしょう。しかし、その最後の恐れの正体は「死」ではないでしょうか。

今朝私たちはイエスさまの名によって、共にここに集っています。イエスさまはこの中におられ、私たちと共におられます。復活のイエスさまはその死を打ち破り、これに勝利された方として、私たちに今朝も告げます。《あなたがたに平和があるように》。私たちはこのイエスさまの祝福に包まれているのです。この幸いを感謝しつつ、「イエスさまは生きておられる」という信仰を証して生きることができますように。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたは、十字架の死に至るまで御旨に従われた御子を善しとして死から復活させ、真の救い主として世に示されました。御子の御足の後に従って歩めますよう私たちを力づけ、導いてください。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。