Sola Gratia

聖霊降臨後第23主日 説教

十人のおとめのたとえ

1「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 2そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 3愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 4賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。 5ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。 6真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 7そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。 8愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 9賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 10愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 11その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 12しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 13だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

今日のたとえ話は、救いの完成を待ち望むことを教える話です。いかにも宗教的な話で、現実離れしていると思われるかもしれません。しかし、この話は、私たちの「行く末」を見つめることと深く関係があります。人は誰でも、「自分がどこから来て、どこに向かって生きていくのか」という根本的な問いを抱きます。この話は、私たちの将来には、イエスさまによる救いの完成の時があり、そこに向けて希望をもって生きよと告げているのです。

イエスさまは、《天の国は次ようにたとえられる》と言って話し始めます。「天の国」は、神の支配のことです。当時のユダヤ人の中で敬虔な人々は「神」と直接に言うことを避け、「天」と言ったわけです。「天」とは、「空」のことではなく、人間の思いよりも高きにいます「神」のことです。神が王として世を支配することを指して、「神の国」といいます。イエスさまは神の支配を婚礼にたとえて語りました。これは、弟子たちをはじめ旧約聖書に馴染んでいる人にはよく知られたイメージでした。神が花婿であり、イスラエルの民は花嫁と考えられたのです(イザヤ62章5)。それを受けて、キリスト教会は、花婿がイエスさまで花嫁が教会だと理解しました。イエスさまもご自身を花婿にたとえて語っています(マタイ9章15、マルコ2章19)。

このように神と人間の関係を結婚関係にたとえるのは、結婚関係において人は共に生き、全人格的に交わることで配偶者を知るのに似て、神を全人格的な交わりにおいて知るからです。そこで、神の支配は婚礼のように喜ばしいことであると言っているのです。

当時の婚宴は二つの祝宴から成り立っていたと言われます。式は夕刻に開始されます。まず花婿が、「花婿の友人」の先導で花嫁を迎えに行きます。花嫁の家では、その行列の到着を待っています。「花婿の友人」が到着を知らせます。その時に、花嫁の家で花婿を迎える役目をしたのが「花嫁の友人」、「十人のおとめ」です。おとめたちは「ともし火」を持って迎えるのですが、時には町外れにまで出て花婿を迎えました。そしてそこで前祝いとでも言うべき祝宴が行われます。それから、花婿・花嫁の友人が先導し、花婿は花嫁を自分の家に連れて行きます。そこで再び盛大な婚宴が開かれることになります。婚宴は一週間続いたといいます。

さて、イエスさまは、この「十人のおとめ」には、賢い者と愚かな者とがいると言います。賢いおとめたちは、ともし火と予備の油を入れた壺を持っています。つまり、準備をちゃんとしていたのですが、愚かなおとめたちは、ともし火は用意したけれども予備の油を持っていませんでした。

次に、イエスさまは、賢いおとめも愚かなおとめも、花婿の到着が遅いため、等しく眠ってしまったと言います。これは、イエスさまの再臨と共に実現する救いの完成が、人間の物差しで測って、遅いと思うことがあり、待ち疲れたという事情を指しています。つまり賢い者も愚かな者も等しくイエスさまを待ち望むことに失敗するのです。このことは、イエスさまがゲツセマネの園で祈ったときも同様でした。祈るイエスさまのそばで、ペトロ・ヤコブ・ヨハネは眠り込んでしまいました。イエスさまは彼らを起こして、《心は燃えても、肉体は弱い》と言いました(マタイ26章36~46)。イエスさまは、こういう人間の弱さを十分に分かっているのです。

花婿は、真夜中にやっと到着します。そしてそのことを「花婿の友人」が知らせます。この時、問題が生じます。賢いおとめたちは、「ともし火」に油を足して、火を大きくし、迎えに出ることができました。しかし愚かなおとめたちは、「ともし火」に足す油がありません。このままでは「ともし火」は消えて、迎えに出ることができません。そこで彼女たちは、油を分けてもらおうとします。しかし賢いおとめたちは、《分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買ってきなさい》と言うのです。ここで、「ともし火」とそれを燃やし続ける油は、人に分けることができないものを指すということが分かります。主の再臨のための準備において、誰も他の人に頼ることはできないということです。

そこで、愚かなおとめたちが店に行っている間に、花婿は到着しました。賢いおとめたちは、花婿と一緒に婚宴の席に入ることができます。イエスさまはこのことを強調して《戸が閉められた》と言うのです。そして次にように言います。愚かなおとめたちも、店から戻り、《「御主人様、御主人様、開けてください」と言った。しかし主人は、「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と答えた》。これは不思議なことです。当時、婚宴は一週間も続くのであって、親類・知人・ご近所が招かれたのです。ですからこのように、五人の愚かなおとめをはじき出すような言葉は意外なものなのです。しかしイエスさまは、こうして「ともし火」を用意することが如何に大事であるかを強調しているのです。では、「ともし火」とは何のことでしょうか。

それは、結びの御言葉を読むと分かります。イエスさまは、《だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから》と言っています。救いの完成の時、すなわちイエスさまの再臨の時がいつなのか、私たち人間には分かりません。私たちに分かっていることは、イエスさまが来られ十字架において死に、復活することによって救いをもたらした。次にはその救いの完成が起こるということです。私たちは、そのことを婚礼にもたとえられる喜びをもって待ち望むのです。そうして見ると、「ともし火」は、信仰一般というよりも、特にイエスさまに対する希望を持ち続けることを意味するようです。そしてこの希望は、イエスさまが繰り返しご自身の救いを私たち一人一人に示し続けることによって更新されるものなのです。

そこで、次のような御言葉が連想されます。ひとつは詩編119編105節の有名な御言葉です。《あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯》。弟子たちは「ともし火」と聞いて、神の言葉を連想したと考えられます。さらにマタイ12章20節です。《彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない》。イエスさまが病を負っている人々を癒したとき、マタイ福音書は、それをイザヤ書42章1~4節で言われている「主の僕」が、イエスさまにおいて実現していると言っています。「傷ついた葦」も「くすぶる灯心」も、まさに私たち人間を指しています。つまり、私たちは、あの十人のおとめのように、イエスさまを待ち望むことに失敗し眠り込み、まさに油が足りなくて灯心が燃え出してしまう「ともし火」のような存在です。イエスさまは、その私たちに、燃え尽きないように油を注いてくださるのです。

こうした御言葉を背景にして考えると、あの「ともし火」と「油」は、イエスさまがご自身の救いの完成を待ち望むよう導き、励ますための「御言葉」と「聖霊」を指すと考えてよいでしょう。こうしてイエスさまは、私という一人の人間がどこに向かって生きているか明らかにしてくださるのです。「私」という人間は年老いて、死に向かって進んでいるのではなく、イエスさまが備えた復活の命に向かって歩んでいるのです。

主の再臨に備える生き方として、ある人はこう言いました。あなたがたはあたかも次のようであるかのように生きなさい。すなわち、キリストが昨日死んだかのように。また今朝キリストが死からよみがえったかのように。そして明日キリストが再び来られるかのように、と。

私たちは、そうした心構えで、今日の自分の生活を整えたいと思います。

祈りましょう。天の父なる神さま。イエスさまによって、救いの完成の時が来る、私たちはそこに向かって生きていって良いと教えられたことを感謝します。私たちがその希望を持って日々の歩みを整えてゆけますようお導きください。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。