全聖徒の日 説教
死者の復活について
- 2020年11月1日(日)
- 全聖徒の日
- マタイ22章23~33
23その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。 24「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 25さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。 26次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。 27最後にその女も死にました。 28すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」 29イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。 30復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。 31死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。 32『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」 33群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。
イエスさまはエルサレム神殿の境内の回廊でファリサイ派とヘロデ派と論争し、それを退けました(マタイ22章15~22)。《その同じ日に》、今度は、サドカイ派が登場し、イエスさまに論戦を挑みます。
サドカイ派とは、祭司と彼らを支持する人々のグル―プで、ダビデ・ソロモン時代の祭司長サドク(新共同訳はツァドク)に由来すると信じていました(サムエル記下8章17)。つまり、名門に連なる者たちです。《復活はないと言っているサドカイ派》とあるように、彼らの特徴は、死者の復活を否定することです。人は死んだら土の塵に帰るだけだと言います。神の救いとその恵みは、現世において与えられるものだと信じていました。その具体的な形がこの世における富です。彼らは神殿の礼拝を運営していましたから、そこから得られる富がありました。したがって将来、神の国がもたらされるといった希望はありません。この世において富があることが、神の救いのしるしだからです。要するに徹底的な現世中心主義なのです。
こうした信仰は、この人々の聖書理解と関係があります。イエスさまの時代、聖書は「律法・預言者・諸書」と呼びました。この内、律法とは、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)のことで、サドカイ派はその本文だけしか規範として認めようとしません。六番目のヨシュア記以下の預言者と諸書には、イスラエルの民が国家を作ったけれども、罪の故に滅ぼされたこと、しかし神は憐れみによってメシアを遣わし、再びイスラエルの民を形成するに至ったという神の大きな御業が記されています。こうした中から神がメシアを遣わして神の国を建て、人は復活してそこにあずかるといった信仰が生まれてきました。神が終わりの日に死者を復活させるという信仰は、イスラエルの歴史の後の方になって成立したのです。
ファリサイ派はこのモーセ律法の新しい解釈を律法の本文と同じ権威のある伝承として認めたので、死者の復活の信仰も受け入れました。しかし、サドカイ派はそうした文書を認めないので、現世中心なのです。
そこでサドカイ派は、イエスさまに対して復活信仰が如何に不合理であるかということを示し、民衆がイエスさまに期待しないようにしようとしたのです。彼らは結婚に関する律法を引用しました。《ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の後継ぎをもうけねばならない》(申命記25章5~6)です。これはレビラート婚といって、その主旨は、死んだ兄の名がイスラエルの中から絶えないようにするためのものです。
そこで、サドカイ派はこんな質問をしました。七人の兄弟がいて、長男が跡継ぎなく死んだので、次男がその妻をめとるというように、次々に七人兄弟全員が長男の妻をめとったが、跡継ぎが無く死に、長男の妻も死んだ。復活のとき、その女は七人兄弟のうち、一体、だれの妻になるのか。
以上のように、サドカイ派の人々は、もし復活などというものがあるなら、こんなナンセンスな事態になるではないか。復活はないと言いたいわけです。
イエスさまはサドカイ派の人々に対して、二つの点で答えます。
第一に、イエスさまは、《復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ》と言います。人間は、この世と復活の世界では、まったく違う状態になると言うのです。結婚は、死ぬべき体の人間が地上で存続するために必要ですが、復活の世界では人間は《天使のように》朽ちることのない体をもって生きる者とされますから、もはや結婚はありません。「だれの妻になるのか」という問い自体が成り立たないのです。ところがサドカイ派は、《思い違いをして》、この世の考え方を復活の世界に持ち込んでいるのです。そこでイエスさまは、まずこの世と神の国の区別を教えたわけです。この世と神の国の混同が起こるのは、サドカイ派の人々が、《聖書も神の力も知らないからだ》と言います。聖書が証しする神とその力を知らないとき、人は常にこの世界と復活の世界を混同し、人間の国と神の国を混同します。
これは、大変重要な指摘です。聖書は、一見すると、イスラエル民族の歴史が書いてあるように見えます。しかしそこには神とその御業が語られているのです。つまり、神は愛の神でいますので、イスラエルという特定の民と結びついて共に歩むという仕方で、裁きと救いという御自分の働きを示してくださっています。ですから聖書は、イスラエルの民の歴史を舞台に神の裁きと救いを告げている書物と言えるのです。
人間は、サドカイ派にせよ先のファリサイ派にせよ、自分たちの行いやあり方がそのまま神の国に通用すると思いがちです。つまり神と人間を混同するのです。そして、この混同から国家や人間を神々であるかのように思い込んでしまいます。それは、神が神であり、人が人であることが分からないからです。ここに罪というものの姿があります。
第二に、イエスさまは、復活はあるということを聖書によって教えます。《死者の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか》。イエスさまはここで出エジプト記3章6節から引用していますが、それは、サドカイ派の人々が復活を否定する根拠にしているモーセ五書を用いたということです。イエスさまはこの出エジプト記の御言葉が死人の復活を語っていると言うのです。どういうことでしょうか。
この引用の箇所は、神がモーセに対して御自分を啓示している場面です。いわば神の自己紹介で、神は御自分がどんな神であるかということを語ります。それが、《わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である》、つまり、神は身を低くして人間であるアブラハムとの交わりに入り、彼の歩みと共に歩んだお方だというのです。神はこのように御自分が特定の人間との交わりに入り共に生きるお方であることを言い表しているのです。聖書の神は、単独でいますお方ではなく、交わりの神、関係の神なのです。このことを聖書は「契約の神」と言っています。
この点を受け止めると、《神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である》というイエスさまの御言葉が分かってきます。神は生きておられます。これが出発点です。死と滅びは被造物の固有の性質です。しかし神は命そのものであって不滅です。そのような神が関わりを持ち働きかけてくださったので、人間は生み出されて生きる者となりました。創造です。また神が、人間の罪にもかかわらず、交わりを持ち共に歩んでくださるので、交わりの相手である人間も死んだ者にならず生きています。これが救いです。ですから、イエスさまはここで、アブラハムもイサクもヤコブも、神との交わりにあずかっているのだから、今も生きていると言っているのです。確かにアブラハムもイサクもヤコブも死んで土の塵に帰り、もはやこの世にはいません。しかし、だからといって、アブラハムに対する神の交わりが終わったわけではありません。これがポイントです。アブラハムに対する神の交わりは滅びることなく存続しています。アブラハムは今も神の前に生きているのです。《わたしが生きているので、あなたがたも生きる》のです(ヨハネ14章19)。イエスさまは、聖書全体は「死者を復活させる神」の啓示だと言ったのです。
群衆は、イエスさまの教えに驚きました。一つは、モーセ五書にすでに復活が言われていると知らされたからです。そして、二つに、何よりも復活とは神が交わりを持ってくださることによって起こることを知らされたからです。イエスさまは、そのことを明らかにするために、十字架の死から復活して、弟子たちの間に現れてくださったのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。イエスさまをとおして死者を復活させるあなたの恵みを示されたことを感謝します。愛する人たちとの別れを悲しむときにも、あなたが彼らと共にいてくださることを信じて慰めを得られますように。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。