Sola Gratia

聖霊降臨後第21主日(宗教改革主日) 説教

最も重要な掟

34ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。 35そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 36「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 37イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 38これが最も重要な第一の掟である。 39第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 40律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

きょうは宗教改革を記念する祝日です。マタイ福音書を読み継いできた流れを切らないように、聖書箇所は聖霊降臨後第21主日の方に指定された箇所を選びました。そして、その箇所(34~46節)の前半、34~40節の「最も重要な掟」に焦点を絞って、み言葉に聞きたいと思います。

ファリサイ派の人々は、イエスさまが《サドカイ派の人々を言い込めた》と聞きました。そこでイエスさまに対する対応を話し合うために、《一緒に集まった》と考えられます。そして彼らは自分たちの仲間に属している「律法の専門家」を立てました。この「律法の専門家」は、《イエスを試そうとして、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要ですか」》と尋ねたといいます。イエスさまの答え如何によっては、罪人として断罪するつもりなのです。

イエスさまは、《『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である》と答えました。これは申命記6章5節にある御言葉です。この御言葉の前には、《聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である》(申命記6章4)とあって、この「聞け」が「シェマー」という言葉ですから、申命記6章4~9節は「シェマーの祈り」と言われます。これは、神殿礼拝や会堂礼拝でも告白されますし、またメズサ(経札)やテフリン(聖句のはいった小箱)に入れて暗唱しますので、誰もがよく知っている聖句でした。

この第一の掟で注目すべきは、「主をあがめよ」ではなく、「主を愛せよ」と言われていることです。愛は一対一の全人格的な交わりです。ですから、心の全体、精神の全体、思いの全体で主なる神にかかわるのです。

この掟を読むときに大切なことは、そもそも人間は単独の自律的な者ではなく、神との関係において生きる者であるという聖書の人間観です。まず神の働きなしに自律的な人間があって、次にその人間がどのように神とのかかわりを持つかという事情ではないのです。生ける神が創造と救いの働きによってかかわってくださっているので、人間は生きる者となるのです。神の働きが私という一人の人間を形作っているのです。

ところで、人間の心には善も悪もあります。ですから、その両方を神に差し向けることが大事です。悪い思いを抱いているのなら、「そのような思いは神にふさわしくない」と自分勝手に決めて、自分の心にはそのようなものが無いかのように振る舞ってはならないということです。偽善や自分の悪い心を映し出す他者を罰することへと導かれたり、また心が分裂することさえあるからです。悪い思いを抱いているのなら、そのありのままの姿を受け止めて、神に向かうことです。それは神の前で居直ることではありません。「主よ、わたしは心の荒みきった貧しい者です。自分ではこの気持ちを何ともできません。憐れんでください」と正直に告白することです(詩32編5)。このように正直に告白できるのは、主なる神が一対一の関係に入ってくださり、ありのままの私たちを愛してくださっているからなのです(一ヨハネ4章10)。

次にイエスさまは、《第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』》と言いました。このみ言葉は、先ほどの第一朗読で聞いたレビ記19章18節にありました。17節から読んでみます。《17 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である》。

17節では、憎しみからの解放の筋道が示されています。18節の方は、憎しみという心の中の気持ちのことではなく、復讐や恨みといった憎しみの実行へと広がることを問題にしているので、否定的な命令が二回繰り返され、禁止を強調しています。そして復讐や恨みを越えるのが隣人を愛することであると言っているのです。

これは復讐したいという憎悪を我慢して隣人を愛するということではありません。復讐は公平に裁く神、正義を行う神がしてくださることであって、人間には隣人を愛することが求められているということです。つまり、神の為すべきことと、人間の為すべきことを区別し、その上で隣人を愛するようにと言っているのです。愛は裁き主である神を信頼することと結びついています。そして神の公平な裁きは、イエスさまの十字架において示されました。神はイエスさまを悪人の身代わりとして裁き、滅ぼしたのです。

このとき、隣人を愛することは、特に《自分自身を愛するように》と言われています。これは、私たちが自分に対してさまざまな配慮や気遣いをしているという事実に基づいて、そのように隣人を愛せよと言っているのです。

けれども人は、正しく自分自身を愛することができるとは限りません。しばしばこうありたいという理想の自分を愛し、ありのままの自分を愛することができないという場合があります。あるいは自暴自棄になり自分を粗末に扱うということがあります。自己愛と自己処罰が同居しているのです。そこで自分自身を愛するとは、主なる神がありのままの私を愛してくださっているということが出発点になります。そしてこのことは、やはりイエスさまの十字架において明らかです。神はイエスさまを罪人として裁くことをとおして、私たちを受け入れ愛してくださっているのです。ですから、主なる神の愛を受けてこそ、隣人を愛することへ導かれるのです。

ここで、神の愛と隣人愛の結びつきをもう少し見てみましょう。イエスさまは、この第二の掟が第一の掟と《同じように重要である》と言っています。つまり、第一、第二という順番はありますけれども、重要度という点ではまったく「同じ」なのです。だからと言って、神を愛することと隣人を愛することとが、いわば二本立てになっているというわけではありません。

まず神が人間を愛してくださったので、人間は神を愛します(一ヨハネ4章10)。神の愛が交わりであり、関係を造り出すものだからです。言い換えれば、人間が神を愛することは、自然に備わっているものではなく、神から新しく与えられる恵みであるということです。ところで、神が愛した人間とは単独の存在ではありません。交わりにおける存在です。神は人間をお造りになるとき、特に男と女とに造られ(創世記1章27)、《人が独りでいるのは良くない》(創世記2章18)と言われ、実際に人間を異質な他者との交わりにおける存在とされました。男にとって女は異質な他者の代表であり、女にとって男は異質な他者の代表です。神はこのような交わりにおける存在としての人間を愛されたのです。そこで、人間が恵みによって神を愛するとは、その御心を大切にし、御言葉に聞くことですから、交わりの相手である隣人を愛することともなるのです。こうして人間が神との愛の関係に生きることは、同時に、交わりの相手である隣人と愛の関係に入ることが伴うのです。

こうして、イエスさまは、結びとして、《律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている》と言いました。「律法と預言者」とは、当時のユダヤ人にとっての「聖書」の全体を指す言葉です。そして、この結びの御言葉の相応しい注解が、ヨハネ福音書5章39節にあります。イエスさまはファリサイ派のユダヤ人に対して、《あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ》と言っています。旧約聖書は、イエス・キリストを証しするものだと言うのです。

そこで、この二つのみ言葉を照らし合わせてみます。すると、聖書である《律法全体と預言者》は、《この二つの掟》を体現しているイエス・キリスト《に基づいている》ということになります。つまり、聖書が神の言葉であるのは、イエス・キリストを証ししているからであり、さらにイエス・キリストにおいて神を愛することと人間を愛することを教えてくれるからです。こうして神を愛することと隣人を愛することが、いわば聖書のみ言葉の解釈の基準であって、どの御言葉もこの基準に照らして受け取る必要があるということです。より根本的には、神を愛することと隣人を愛することを完璧に実現した方が他ならぬイエス・キリストご自身ですから、聖書の御言葉は、つねにイエスさまは救い主キリストであると証ししているものと受け止めることになります。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたがイエスさまをとおして神と人との愛の絆を回復してくださったことを感謝します。私たちが、その恵みを深く自覚して神に立ち帰り、イエスさまにならって神と人とを愛し仕える道を歩めますように。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。