Sola Gratia

聖霊降臨後第19主日 説教

婚礼のたとえ

1イエスは、また、たとえを用いて語られた。 2「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。 3王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。 4そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』 5しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、 6また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。 7そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。 8そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。 9だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』 10そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。 11王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。 12王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、 13王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 14招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

イエスさまは、今から話すたとえ話は「天の国」についてであると言って始めます。マタイ福音書は神を「天」ということがありますが、これは、「神の名をみだりに唱えてはならない」という十戒を重んじた当時の人々にならってのことです。「天の国」の「国」は、「王として支配する」という意味です。聖書の神は高きにいます方ですが、人間に無関心ではなく、王として守り、治め、導く方なのです。では、その神が王として支配する、その支配はどのようなものか。それが、《ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている》ということです。イエスさまは、神の支配がこの世における王家の婚宴にたとえられるほどに、喜ばしい支配であると言っているのです。

旧約聖書の時代から、神は花婿に、イスラエルの民は花嫁にたとえられてきました(イザヤ54章5)。これは、神とイスラエルの交わりが一対一の愛の関係であって、人間の世界では婚姻関係に比べることができるからです。ただイエスさまのたとえでは、花婿である王子が誰であり花嫁が誰であるかは明言されず、婚宴に呼ばれる客がイスラエルの民であって、その代表者が祭司長、長老たち、ファリサイ派の人々となっています。

このたとえ話の焦点は、王子の婚宴に招待された客の態度です。王は自分たちだけで婚宴を行っても良さそうなものですが、このたとえでは、まるで招待客が参加しないと婚宴が成り立たないかのように、繰り返し招待客を求めています。ここにイエスさまの伝えたいことがあります。それは、聖書の神は契約の神であり人間と共にある神であるということです。だからこそ、婚宴にたとえられる「救い」にあずかるようにと、繰り返し人を招くのです。

さて、《王は家来たちを送り、招いておいた人たちを呼ばせたが、来ようとしなかった》といいます。王は前もって家来を送り、人々を婚宴に招きました。そして婚宴の準備が整ったので、招いた人々に対して、ふたたび家来を送り、今度は婚宴へと実際に案内しようとしたわけです。ところが人々は来ませんでした。

つまり、神がイスラエルの人々を「救い」にあずからせるのは、ちょうどこの婚宴への招待のように、二度行われているということです。これは、旧約における救いの「預言」と新約における救いの「実現」に対応しています。神は、それほどに交わりの相手であるイスラエルの民を尊重しているのです。ところがイスラエルの民は聞き入れませんでした。

そこで王は4節でふたたび家来をつかわして案内します。これは3節の強調、拡大です。王は家来たちをとおして、《すっかり用意ができています》と言っています。つまり、あなたがたを迎えるばかりに準備できたということです。しかも特に《牛や肥えた家畜を屠って》いると言っていますが、この牛については、レビ記1章4節で、罪を贖う儀式の犠牲獣の筆頭に挙げられています(詩編51編21節も参照)。そうすると、婚宴の準備がすっかりできたというのは、罪を贖うことと密接に関係していることになります。実際、イエスさまはこのたとえを話された同じ週の金曜日に十字架にかかり、罪を贖います。ですから、まさに罪が取り除かれ、神との正しい交わりが打ち建てられるばかりになっているということです。そこで、イエスさまは、方向転換して、すなわち悔い改めて、救いにあずかるように招いているのです。

けれども人々は無視したわけです。王の招きを無視して、人々は畑や商売に出かけてしまいます。まるで婚宴など無いかのように日常生活を続けたということです。つまり、王が自分たちを治めていること、またその王子の婚宴が行われることなどまるで無いかのように振る舞っています。さらに、家来たちを捕まえて乱暴し、殺す者もいました。

そこで、王は《軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った》といいます。それほどに王の怒りは燃え上がりました。これは、イエスさまの救いを拒否し、それにあずかることがないなら、罪に対する神の怒りがどのようなものかを指し示すものです。

ところで、王子の婚宴は中断されていません。準備は整っているのです。そこで、王は家来に《町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れてきなさい》と言って、新たに招きます。町の大通りは、焼き払われた町の大通りです。そしてそこにいる者たちは王の怒りを免れた者たちです。つまり、王に前もって招待を受けることのなかった者たちです。それは聖書を知らない者たちと言って良いかもしれません。具体的には、ファリサイ派の人々によって罪人とされた者たちのことであり、さらには異邦人のことです。ともかく王は《見かけた者はだれでも》連れてくるようにと言います。

こうして家来は出て行き、王の命令どおりに「見かけた者はだれでも」連れてきたので、婚宴には善人も悪人も皆集まりました。イエスさまは山上の説教の中で、《父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる》方であると言っています(マタイ5章45)。神の御前では、またイエスさまの眼差しの中においては、この世における善人も悪人も等しく罪人であって滅ぼされるべき者でしかありません。善人も悪人も集めるのは、神自らが罪を引き受ける方だからこそ言えることで、それはイエスさまの十字架の死において起こっています。だから十字架のイエスさまを信じる「しるし」は、善人も悪人も招かれていることにあるのです。

王は宴席で《礼服》を着ていない者に目を留めました。婚宴用の礼服は、招待客が自前で用意するものではありません。王が用意するものです。そこで、王は礼服を着ていない者に対して《友よ》と呼びかけ、その理由を尋ねています。王は、礼服が足りなかったのか、それとも与え忘れたのかを確かめようとしたと思われます。ところがこの者は王の問いに対して沈黙しています。王が用意した礼服が足りないのでも、与え忘れたのでもないということでしょう。そうすると、礼服を与えられたのに、あえて着なかったということなります。それは、婚宴そのものを侮辱しているということです。だから王は《この者の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ》と命じたのです。

婚宴で与えられる《礼服》は、イエスさまにおける神の救いを指しています。ですから、礼服を拒絶し婚宴を侮辱したあの者は、神の救いを拒絶したわけで、神の裁きがそのまま下ります。イエスさまは、イスラエルの民の指導者である祭司、民の長老、さらにファリサイ派の人々がそのようになって欲しくないので、ご自分の救いを拒絶する者の惨めな運命についても、はっきりと語ったのです。

こうして、結びの言葉です。《招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない》。招きは一方的です。イエスさまが招きます。しかし「選ばれる」というのは、双方向であり、交わりを意味します。イエスさまが「私」を選びます。「私」はその選びを受け入れるので、イエスさまに「選ばれた」者となるのです。そしてこのような関係に入る者は《少ない》のです。それは、神の救いがイエスさまの十字架の死において現わされるからです。どうして十字架の死という惨めさが神の力強い救いであると言えるでしょうか。少なさは、このような神の救いの特殊性を言っているのです。ですから、イエスさまの十字架における罪の赦しを信じる者たちが現れるとすれば、それこそが奇跡であって、神の恵みの働きであり、聖霊の働きに他なりません。

祈りましょう。天の父なる神さま。イエスさまの十字架をとおして私たちの罪をあがない、救いへと招いてくださる恵みに感謝いたします。あなたの招きに感謝と喜びをもって応え、日々あなたに立ち帰りつつ歩むことを得させてください。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。