Sola Gratia

聖霊降臨後第8主日 説教

天の国のたとえ

44「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

45また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。 46高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

47また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。 48網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。 49世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、 50燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

きょうは、44~50節にある三つのたとえを学びたいと思います。

この三つのたとえはどれも、《天の国は次ようにたとえられる》という言葉で始まっています。ここで語るたとえが、天の国のことだと告げられています。「天の国」とは神の国のことで、それは神が王として支配するという意味です。イエスさまの活動によって始まった神の支配がどのようなものであるかを、たとえで示そうとしているのです。

神の支配は、一方通行ではありません。神の人との間には双方向の交わりがあります。ですから、神の支配には、神がこの世の人を支配するという、神から人への働きかけの面と、人が神の支配を受けるという、人から神への働きかけの面の、二つの面があります。

まず「神が人に対して働きかける」という面ですが、神はそれを御自分の独り子イエスさまを通して行っています。そこで、人に対する神の働きかけは、人に対するイエスさまの働きかけになります。イエスさまは神として人に働きかけるのです。

次に「人が神の支配を受ける」という面ですが、私たち人間は罪人であるために神の働きかけを受け入れません。かえって自分の思いで神に対して働きかけようとします。そして、それはすべて神に向かわず的外れになります。聖書のいう「罪」とは、「標的を射そこなう」こと、神という的に向かわないことをいいます。そこでイエスさまは、そういう私たちに代わって、私たちのために、真の人間として、神に対して正しく応答していきます。イエスさまは私たちの兄弟となってくださったのです。ですから、私たちは真の信仰者であるイエスさまを見つめ、イエスさまに結ばれて、神の支配のもとに生きることになります。

このように、私たちは、イエスさまを通してのみ、父なる神と子なる神イエスさまの交わりにあずからせていただくのです。ですから、イエスさまの「天の国のたとえ」も、この二つの面から見ていくことになります。

まず44節は、「隠された宝」のたとえです。イエスさまは《畑には宝が隠されている》といいます。それを発見した人は、おそらく小作人でしょうが、《そのまま隠して》おきます。他の人に宝を取られないようにしたのです。そして《喜びながら家に帰り、持ち物をすっかり売り払って》お金を作り、畑ごと買い取ります。

まずこのたとえを、イエスさまの働きの側から見てみます。イエスさまにとって「畑」はこの世界でした(マタイ13章38)。この世界は過酷な世界ではあるけれども、その中に「宝」があるといいます。その宝とは、じつは私たち人間に他なりません。

申命記7章6節に、《あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたがたを選び、御自分の宝の民とされた》とあります。このように神は、イスラエルの民に代表される人間が御自分にとっての「宝」であり、価値のある存在だと言っています。だからこそ、イエスさまは御自分の《持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う》のです。つまり、イエスさまは、神の子であるのに、私たち人間を神の民とするために低きに下り、十字架に掛かって私たちを救い出すのです。この点を聖書は《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された》(ヨハネ3章16)と記しています。このたとえは、神の支配とはイエスさまの愛と恵みによる救いだと言っているのです。

次にこのたとえを、神の支配に生きる人間の側から見てみましょう。「畑」に代表されるこの世界は、自然も人間社会も矛盾をはらんでいます。私たちの人生もまた矛盾ばかりです。こんな生活は嫌だ、こんな自分は嫌いだと言いたくなるときもあるでしょう。しかしイエスさまはこの畑には宝が隠されていると言います。隠されている宝とは、神の知恵、神の御言葉のことであり、イエスさまご自身のことでもあります。《知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されています》(コロサイ2章3)とある通りです。イエスさまは私たちの人生にすでに隠れた仕方で来ています。そこで私たちは、この知恵であるイエスさまを得るために、喜んで《持ち物を売り払ってその畑を買う》のです。イエスさまが十字架に掛かったのは、私たちのために罪滅ぼしをしてくださったことであり、また、そういう仕方で私たちの人生に係り合っていてくださることだからです。私たちの人生はもはや捨ててよいようなつまらないものではありません。ですから、私たちは、明るさと暗さ、楽しさと辛さの両方ある、ありのままの自分の人生を引き受けることができるのです。

このようにイエスさまは身を投げ出して私たちの世界、また私たちの人生の只中に来てくださいました。ですから私たちは、「こうでありたい」という理想の自己という「持ち物」を投げ出してイエスさまに向かうのです。神の支配はこのような動きを生み出し、動かし続けます。

45~46節は、「真珠を見つけた商人」のたとえです。イエスさまは、《商人が良い真珠を探している》と語り出します。イエスさまの時代には真珠は高価なものとして知られていました。ちなみに、「マーガレット」という女性の名前は、聖書の「真珠」という言葉(ギリシア語)から来ています。

このたとえは、神の知恵は真珠のように貴重であって、商人が持ち物をすっかり売り払って買うほどの価値があると言っています。つまり、神の知恵であるイエスさまを求めることは、私たちが人生を賭けるに値するということです。このとき、このたとえでは商人が《出かけて行く》と言われています。高価な真珠にたとえられる神の知恵であるイエスさまが私たちのためにおられると知ったなら、「出かけて行く」という新しい動きが始まるのです。

47~50節は、「投げ網」のたとえです。これは、前の二つと違って、神の支配が完成する時のことを言っています。弟子たちはガリラヤ湖の漁師でしたから、身近なたとえです。神は、イエスさまを通して、漁師が網でいろいろな魚を獲るように、さまざまな人間をとらえてくださるのです(エゼキエル47章10)。そして、漁師が網を《岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる》のと同じように、神は御自分の目に適った《正しい人々》を御自分のものとされるのです。その正しい人々とは、イエスさまに結ばれている者のことです。イエスさまは私たちの罪を取り除くために十字架の低きにまで下りてきてくださいました。ですから正しい人々とはイエスさまに救われた者のことなのです。

他方、私たち人間は、このたとえの中では、網にかかった《いろいろな魚》です。魚と同じく。私たち人間もさまざまです。ですから、例えば白い魚だけが神に受け入れられるはずだというような主張は無意味です。神は「いろいろな魚」を一つの網に入れているからです。

しかし神は人を分ける一つの規準を持っています。御自分を神として認め敬いつつ聞き従うか否か、それによって正しい者と悪い者に分けます。ところが、《器に入れる》べき良い魚は一匹もいません。この点をパウロは《義人はいない。一人もいない》(ローマ3章12)と書いています。イエスさまは、こうした事情をご存じだからこそ、十字架に掛かり、すべての者が神との交わりに生きることができるようにしてくださったのです。ですから、正しい人々とは、自分の罪を贖うお方としてイエスさまという宝を発見する者のことです。イエスさまは十字架という低いところで私たちと出会ってくださるお方です。私たちは、この広く深いイエスさまの愛と恵みを、よくよく心に止めたいものです。自分の命とは、じつはイエスさまとの交わりの中にこそあるのだからです。

祈りましょう。天の父なる神さま。わきまえのない私たちを御自分の宝とまで大事に見てくださっていることを感謝します。この愛によって心動かされ、一心にあなたを仰ぎ見ている私たちを、御言葉と聖霊によって終わりまで導いてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。