Sola Gratia

聖霊降臨祭 説教

イエスは生ける水の泉

37祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 38わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 39イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

きょうは、復活したのち天に上げられたイエスさまが弟子たちに聖霊を注いだことを喜び祝う日です。聖霊の降臨は五旬祭のときの出来事ですが、五旬祭はもとは春の大麦小麦の収穫感謝祭でした。のちに出エジプトの50日後に神がシナイ山で律法を与えてくださったことを記念する意味が加わりました。旧約の昔、この日に律法を与えられてイスラエルの民の信仰共同体が成立したように、新約時代のこの日、聖霊を与えられて新たにキリスト教会という信仰共同体が成立したのです。

実は、きょうの御言葉は、イエスさまが五旬祭ではなくて、仮庵祭のときに語ったものなのです。初めに、イエスさまがこの御言葉を語ったときの状況からお話ししたいと思います。仮庵祭というのは、過越祭、五旬祭と並んでユダヤ教の三大巡礼祭の一つです。ユダヤ教徒は、この三つの祭りのときにはエルサレムに上って祭りに参加する決まりでした。その中でも、ユダヤ教では「祭り」といえば仮庵祭を指し、もっとも重んじられていた祭りです。

この仮庵祭も、もとは秋の収穫感謝祭でした。ぶどう・オリーブ・イチジク・デーツ・アーモンドなどが収穫されました。その際に畑に仮小屋(仮庵)を作って果実を取り入れました。それが仮庵祭の名の由来です。のちにこの仮小屋は、先祖たちがエジプトを脱出して40年に及ぶ荒れ野の旅を神の守りの中で歩んだ、そのことを思い起こすものという意味に換わっていきました。イスラエルの民が荒れ野の旅をしていて水が無くなったとき、神はモーセに岩を打つように命じました。モーセが岩を打つとそこから水が出て、人々は命を保ったのです。このことを覚えて、仮庵祭の最終日には、エルサレムにあったシロアムの池の水を汲んで神殿に運び、祭壇にその水を注ぎます。この水を汲みに行き神殿に運ぶ間、人々は歌をうたい、楽器を鳴らし、水が注がれると歓声を上げます。これには仮庵祭が終わると間もなく雨期に入りますが、大麦や小麦の実りに必要な十分な雨が降りますようにという雨乞いの意味もあったのです。このお水取りの儀式のときに歌われた歌がイザヤ12章に記されています。《見よ、わたしを救われる神。わたし信頼して、恐れない。主こそわが力、わたしの歌。わたしの救いとなってくださった。(交唱)あなたたちは喜びのうちに、救いの泉から水を汲む》(イザヤ12章2~3)。この交唱の言葉が、フォークダンスの「マイムマイム」という曲の歌詞になっています。「マイム、マイム、ベッサッソン」と歌いますが、マイムは「水」、ベッサッソンは「喜びのうちに」という意味です。雨量の乏しい地方では、どんなに水が大事であるかが分かります。

では、きょうの御言葉に戻りましょう。まず37節は、イエスさまの招きの言葉です。イエスさまはこの儀式の最中に、《渇いている人はだれでもわたしのところに来て飲みなさい》と大声で告げました。仮庵祭の水は文字通りの水、肉体を保ち、作物に実りを与える水でしたが、あなたがたが本当に必要としている水は、この水ではない。人間に本当に必要な水は、神から与えられる命の水、死をも打ち破り永遠の命へと人々を導く水ではないか。それをわたしは与えよう。わたしのもとに来るが良い。そう招かれたのです。

私たちは生きていく上で、様々な渇きを覚えます。愛したい、愛されたいという渇き。人と人との関わりの中で平和を得たいという渇き。明日への希望を持ちたい、明日への不安から逃れたいという渇き。自分が生きている、生かされているという実感を得たいという渇き。人に認められたいという渇き。イエスさまは、その様々な渇きに対して、わたしのところに来なさい、そうすればその渇きはいやされる、そう約束して招いているのです。

人間のだれしもがもっている「渇き」、その「渇き」は、神を真剣に求めるようにとの示しだとも言えます。また同時に、渇きへの気づきは神のひとつの「賜物」とも言えます。詩編の作者は生ける神を求めて渇いている様子を、何としても水を得なければ生きられないという危機的な状況にある鹿にたとえて歌っています。《涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く》(詩42編2~3)。

渇きは、人間のニーズの中でも最も根源的なものであり、切実です。「渇き」はどうしても満たされなければなりません。このような渇ける魂に向って、イエスさまは呼びかけているのです。イエスさまのところに来て飲むというのは、イエスさまを信じることです。イエスさまを私の救い主、まことの神にしてまことの人、私の一切の罪を担ってくださる方として信じるということです。

では次に、38節の約束の言葉を聞いてみましょう。イエスさまは《わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる》と約束します。この「生きた水」とは、すぐ後に《イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである》とあるように、イエスさまを信じる者に与えられる聖霊のことです。また、イエスさまが《聖書に書いてあるとおり》と言っているのは、ヨエル3章を指すのでしょう。きょうの第一朗読、使徒言行録2章でも、ペトロが説教の中で引用しています。《その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。 その日、わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ》(ヨエル3章1~2)。聖霊は生きた水です。私たち一人一人を生かす水です。イエスさまは、わたしを信じるならば、その人を内側から生かしていく力を与える生きた水、聖霊を与えると約束してくださったのです。

ここで私たちは、イエスさまとサマリアの女の会話を思い起こします。イエスさまは、ヨハネ4章14節でこう言われました。《わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る》。このときに言われた「わたしが与える水」が「生きた水」であり「聖霊」なのです。生きた水がもたらす「永遠の命」とは何のことでしょうか。イエスさまはヨハネ17章3節で答えています。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神と、その神がお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と。ここで「知る」とは、ただ知識を得ることではなく、イエスさまとの、愛によるゆるぎない交わりの中に入れられることを言います。

この生きた水は、さらに、イエスさまを信じる者から川となって流れ出ると約束されています。イエスさまを信じる者は、イエスさまから聖霊を注がれ、聖霊の賜物として善きもので満たされます。それにとどまらず、イエスさまを信じる者、つまり私たちから周りに向かって聖霊が川となって流れ出すと言うのです。私にそんな力があるだろうかと思うかもしれません。しかし、神は私たちを聖霊なる神の器、人を生かす水を運ぶ者として用いようとされているのです。きょうの第二朗読、第一コリント12章7にも、《一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです》とありました。

最後に、39節後半の言葉にも注目しましょう。37、38節はイエスさまの言葉ですが、これは著者ルカの解説です。《イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである》。イエスさまがまだ栄光を受ける前だったので、聖霊が降るのはまだ将来の約束だったわけです。イエスさまの栄光とは、神の御心を受けて十字架と復活によって救いの御業を成し遂げることです。そして、イエスさまは神に託された御業を成し遂げて、この五旬祭の日に、約束の聖霊を送ってくださったのです。

人は誰も、一回イエスさまの話を聞いて信じられるというものではないでしょう。しかし、イエスさまのところに来て、イエスさまの言葉を聞き続けるなら、私たちは必ず生ける水である聖霊を受けることになります。さらにその水が川となって外に流れ出し、私たちの周りの人々を愛と平和と喜びで満たしていくことになるのです。私たちは、このイエスさまの約束を信じ、招きに応えて歩んでいきたいと思います。

祈りましょう。仮庵祭が目指していた本当の潤い、魂の渇きの癒しがもたらされますように。仮庵祭が目指した本当の喜びが満ち溢れますように。その喜びの中で、私たち一人一人を、この教会を、この荒れ野の世にあって「潤された園」、「水の涸れない泉」として生かしてくださいますように。御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。