Sola Gratia

四旬節第5主日 説教

ラザロの死と復活

17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。 18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。 19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。 20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。 21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。 25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

きょうの聖書は、ラザロの復活の物語です。ラザロは、マルタとマリアの姉妹と共にベタニア村に住んでいました。そこはエルサレムから3キロのところにあり、いつもイエスさまがエルサレムに行くときの宿にしていました。ラザロが病気で危ない状態になったとき、ラザロの姉妹は人を介して、イエスさまに、《主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです》(3節)と伝えました。しかし、《イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された》(5~6節)とあります。「同じ所」というのは、10章40に《イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された》とあるように、身の安全のため、ヨルダン川の向こう側に滞在していたのでしょう。そこで、ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間滞在し、ユダヤに行くことを神のみ旨であると信じたのち、出発をしました。ベタニアに着いたとき、ラザロはもう墓に四日も置かれていたのです。

マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていました。当時の習慣では、人が亡くなると、なるべく早く葬り、そのあと喪に服します。人々は残る家族を慰めるためにその家を訪れました。身内を亡くした家族を慰めることは、大切なこととされていたのです。姉マルタは、イエスさまの到着を知り、急いで村の入口まで迎えに行きました。しかし、妹マリアの方は、愛する弟を失った悲しみに心を奪われて、立ち上がる気力もなく、家の中で沈み込んでいました。

マルタは、イエスさまを見ると、開口一番、《主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに》と言います。マルタは、「あなたは私たちの知らせを受けとき、どうしてすぐに来てくれなかったのですか。あなたは手遅れになるまで放っておいたのですね」と言いたかったのでしょう。しかし、続けて、マルタは信仰の告白をします。《あなたが神にお願いになることは何でも、神はあなたにかなえてくださると、わたしは今でも承知しています》。この言葉に対し、イエスさまがラザロの復活を約束すると、マルタは、《終わりの日の復活の時に復活することは存じています》と答えます。「終わりの日のことは、今は関係ないでしょ」、とでも言いたげな答えです。マルタにはイエスさまの言葉の意味が分かりません。

マルタは、これまで、さまざまなところで病人の癒しを行ってきたと伝え聞いているイエスさまが、彼女の兄弟、主が愛しておられたラザロには、癒しをしなかったことに対する失望を表しますが、つづく信仰の告白は、そうであってもイエスさまを信じる信仰を表します。マルタにとって、ラザロが死んだという出来事と、自分がイエスさまを信じる信仰とは、ここではうまくつながっていません。

そんなマルタにイエスさまは答えます。《わたしは復活であり、命である》。わたしは、死に打ち勝つ者、すなわち復活であり、死に支配されない命、永遠の命である、ということです。これに続くイエスさまの、《わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか》との問い掛けに、マルタは答えます。《はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております》。この力強い信仰告白は、言葉の上では立派なものです。しかし、彼女は復活の命について、さらに深く学ぶことが必要でした。

さて、マルタはそのように言ってから、家に帰り、マリアを呼び、慰めに来ていたユダヤ人たちに聞こえないように、「先生がお呼びです」と耳打ちします。悲しみにうちひしがれていたマリアはその一言に立ち上がります。そのマリアが出て行く姿に、ユダヤ人たちは、《墓に泣きにいくのだろうと思い》、マリアを慰めるため、後を追うことになります。しかし、マリアが向かった先は、イエスさまのところでした。自分の悲しみでいっぱいのマリアは、《イエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足下にひれ伏し》とあるように、必死でイエスさまをめざして歩き、イエスさまの姿を目にしたとたん、その足下にひれ伏しました。そして開口一番、《主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに》とマルタと同じ言葉を言います。

マルタとマリアの行動はまったく違いましたが、発した言葉はまったく同じ言葉でした。イエスさまがベタニアを訪れるまで、この二人の姉妹は「主がここにいてくれたなら・・・」と、何度もくり返し口にしてきたにちがいありません。苦難のとき、孤独のとき、なにもかも上手くいかないとき、私たちも、「主がここにいてくれたなら・・・」、と考えることがあるのではないでしょうか。

イエスさまは、マリアが泣き、一緒に来たユダヤ人もラザロの死を悲しんで泣いているのを見て、《心に憤りを覚え、興奮して言われた。「どこに葬ったのか」》(33節)。人々は、《主よ、来て、ご覧ください》と応じます。ここで、イエスさまは涙を流しました。人々は、イエスさまが涙するのを見て、ある者はラザロへの愛の深さを読み取り、またある者は《盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか》と考えたのでした。

さて、いよいよラザロの復活の場面に来ました。《イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた》(38節)。墓は洞穴で、石で塞いでいました。当時、ユダヤでは火葬ではありません。屍体は香油をぬり亜麻布でくるんだまま置かれます。石は、野獣の侵入とか墓荒らしなどを防ぐためのものでした。墓は、死の支配する領域です。しかし、イエスさまは、ラザロの死の領域に踏み込みます。人々に《その石を取りのけなさい》と言います。それを聞いたマルタはとっさに、《主よ、四日もたっていますから、もうにおいます》、と反応します。人々にとって、もうラザロは死んでいるのです。そのままであれば、死の支配にまかせるしかないラザロの身体でした。あれほど熱くイエスさまをメシアだと告白するマルタも、この時点では、今ここでイエスさまがラザロを復活させると信じてはいませんでした。

しかし、イエスさまは静かに確信をもって語ります。《もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか》(40節)。あなたがたは、希望のない死ではなくて、あなたがたの想像を越える神の救いの出来事を、今ここで見ることができる、と言うのです。イエスさまに促された人々は、その石を取りのけました。すると、イエスさまは、天を仰いで感謝の祈りを献げたのです。《父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています》。この祈りは、ラザロの復活を人々が見たあとに祈った祈りではありません。イエスさまは、人々が石をとりのけた後すぐに、祈られたのです。続いて、《しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです》、と言っています。イエスさまがラザロの復活のしるしを願ったのは、ご自分の名誉や名声のためではありません。周りにいる人々のため、ラザロの死という出来事を通じて集められた民が、信じるためでした。イエスさまの祈りは、神の力を求める祈りでした。この祈りののち、イエスさまは、《ラザロ、出て来なさい》と、高らかに呼ばわります。すると、ラザロは墓から出てきました。イエスさまは、ここで神を信じるということがいかなることなのかを、私たちに示します。イエスさまは、この出来事で、神の力を示しました。イエスさまが感謝して祈ったとき、神にすべてを託したとき、ラザロは起き上がりました。

私たちは、この物語から、ラザロを復活させたのと同じ神の力が、イエスさまご自身を復活させるという確信を得ることができます。私たちもイエスさまと共に、イエスさまのように復活できると信じることができるのです。

イエスさまはすでに、こうも言っていました。《よくよく、あなたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠の命を受け・・・死から命に移っているのである》(5章24)。イエスさまは、そのことが生きた現実であることを証しするために、ラザロを死の眠りから目覚めさせたのです。

復活の命は、遠い将来の話しではなく、今すでに始まっている命だからです。マルタやマリアにとって、復活の約束の本当の意味は分かりませんでした。私たちもまた、然りだと思います。しかし、私たちは、神の力の確信によって、私たちに与えられている復活の希望に歩むことを許されています。そして、復活は終末の問題だけではなく、今すでに与えられている復活への希望の中を、光の中を、イエスさまと共に歩むことであるということを、ラザロの物語は私たちに教えています。復活・永遠の命とは、新しい天と新しい地での復活の命を、イエスさまの言葉を聞いて信じる者は、今すでに、このときから生き始めるということなのです。私たちの命は、父なる神と御子イエスさまの愛の交わりの中に包まれ、しっかりと守られているのです。